朗読されたのは主の変容と言われる箇所です。イエス様が自分はメシアであること、エルサレムで十字架にかかって殺される受難予告をされています。
イエス様には、十字架に掛けられて死ぬ苦しむ姿と、生きている時から復活の輝きを放つ部分と2面性がありました。苦しむ姿と栄光に輝く姿。 両方があることは、私たちにも言えます。 先週は、洗礼志願式がありました。志願者の皆さんの顔は輝いていました。同伴された代父母の表情も喜びがありました。これまでの人生で色々な出来事があったと思いますが、これからは神様の子、光の子として歩んでいただきたいです。実り多い、洗礼式になるように引き続きお祈りしましょう。
さて、歴史的事実化はわかりませんが、このような話があります。 レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を描くために、弟子の12人とイエス様のモデルを探していました。道を歩きながらイメージにぴったりする人がいたら、「この人はアンデレに!」などと声を掛けていきました。ある時、とても光り輝いた、喜びにあふれた素晴らしい感じの人と出会いました。そこで「この人がイエス様だ!」と思ってモデルになってくれるように声を掛けました。
こうして段々登場人物を埋めていったら、イスカリオテのユダがなかなか見つかりません。ユダの心の中の罪の深さを表現できそうな人がなかなかいません。彼は探し続けていたら、とてもがっかりして暗い顔をしている人に出会います。ダ・ヴィンチは彼に声を掛けて、「本当に申し訳ないけれども、ユダのモデルになって欲しい」と頼みました。すると彼はものすごくさびしい顔をして、こう答えます。 「実は、2年前、イエスのモデルをしたのは私なんです。その時はよかったんですが、そのあと罪や自分の欲望にとらわれて、人生がうまくいかなくなって、今は本当に最低の生活をしているんです。」 ダ・ヴィンチもとても驚いて、あのイエス様のイメージの彼と、今のユダのイメージにぴったりの彼を見て、感じるところがありました。
結局、ダ・ヴィンチは彼をモデルにユダを描きました。同じ一人の人間がイエスのモデルになるし、ユダのモデルにもなりえます。私たちは、イエス様のように輝く生き方もできるし、神様から離れて力を失って絶望する生き方を選ぶこともできます。
そして、そのことは、個人だけでなく国や社会にも通じます。 教会で「主の変容」を祝う日は、8月6日広島に原爆が落とされた日です。日本では、「主の変容」と原爆投下日を思い起こし、複雑な思いを抱きます。
あるアメリカの神父さんがこう言いました。「主の変容の意味をよく考えなければならない。私たちは、イエス様のような者になって輝かしい真っ白の人生を歩むこともできるし、広島の原爆投下後のドロドロの悲惨さ、地獄の姿に変容していく可能性を秘めている。変容は2つの種類に分けられる。主イエスのようにも変容できれば、原爆による惨状のように変容することもある。その選択の責任は全人類に与えられている。」
今まさに、ロシアのウクライナへの軍事侵攻が起きて、惨状に変容しています。世界の国々が手を取り合って素晴らしい社会ができるのに、悲しい出来事が起きています。私たちの中にも、「平和が当たり前」と、たかをくくっていたところがあったかもしれません。今、平和が失われて、ウクライナの人たちのために祈っています。イグナチオ教会ではイエズス会難民サービス(Jesuit Refugee Service)、ウクライナから逃げた人たちを直接支援している国際NGOへの募金を呼びかけています。難民の方たちへの必死の支援が続けられています。私たちも歩みを共にしましょう。
私たち一人一人にも「栄光」と「苦しみ」があります。「栄光」の姿に近づきましょう。そして今、「苦しみ」にあるウクライナの方々に私たちの祈りと優しさを届けましょう。「苦しみ」から「栄光」へと変わるお手伝いをしていきましょう。
参考資料 『イエスの生涯を黙想する』キリスト教放送局 日本FEBC 第17話「イエスの変容」
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