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復活節第5主日

  • shibatakiyoshisj
  • 11 分前
  • 読了時間: 5分

ヨハネ福音書で使われる「栄光」という言葉は、一般的な意味とは違います。「栄光」は十字架上での「死」を意味します。「神が子(イエス)に栄光を与える」とありますが、十字架上で死ぬ、酷い「栄光」です。「死」が「栄光」になる・・・これは神様がなさる神秘でしょう。

『テレーズ その生涯における苦しみと祈り』(フランシス・ホーガン著、山口カルメル会訳 女子パウロ会 1998年)などから、テレジアの「死」と「栄光」(勝利)を考えます。


まず、七五三祝福式でお話している小さき花のテレジアのお話です。


聖イグナチオ教会 テレジアホール入口のリジューの聖テレジア像

152年前にフランスに生まれた女の子です。

1873年1月、フランスのアランソンでテレサ生まれる。父は宝石商。母はアランソンレーズを編む、9番目の子供の子でした。

「神様が喜ばない、小さなわがままも嘘もよくない」と厳しく躾けられました。

「誰かを悲しませたくない、喜ばせたい。」テレーズはいつもそう思っていた。

誰かを悲しませたとすると、すぐに大粒の涙が出ました。「ごめんなさい」を繰り返し、許して貰えるまでは安心できない子でした。

テレジアは5歳の時:「神様を喜ばせることをします」「神様を悲しませることは絶対しません」とお約束しました。


「15歳になったら、2人の姉がいるカルメル会に入りたい」と願うようになりました。

1887年の聖霊降臨の大祝日の日、庭にいた父に、涙ながらに決心を打ち明けました。

「重大な決心をするには、あまりにも若すぎる」と反対した父も、ついに承諾してくれました。

パパは高い塀のそばにいて、白い小さな花を摘み、神様がどのようにこの花をお咲かせになり、お育てになったか説明してくれました。私は、自分の生い立ちを聞いているような気がしてなりませんでした。


パパからのお話を聞いてテレジアは思いました。「自分は“小さき花”のテレジア」 大きなお花が立派、とは思いませんでした。

太陽は、小さなお花にも、大きなお花にも、同じようにお日様をくれます。小さなお花には、少ししかお日様あげません、とは言いません。神様も同じです。一人一人、大きな人にも小さな人にも同じように愛を注いでくれます。大事に大事に育ててくれます。

祭壇の前の花束、 大きいお花だけじゃなくて小さいお花もあるから綺麗です。 大きくても小さくても自分のお花が咲いてるから綺麗です。

人と比べなくていいです。  自分のお花を咲かせたら、綺麗で、幸せです。


15歳で 念願のカルメルの修道院に入った彼女は、単調な生活でしたが、どんな勤めも疎かにせず一つ一つを大切にしました。彼女はそういった道を、“小さな道”と名付け、導かれていきました。


「ある時、洗濯場でハンカチを水から引き上げるたびに、汚い水をわたしに跳ね上げるシスターと隣り合わせになりました。顔を拭きながら私は思わず後ずさりしようとしていました。けれどもこれだけ惜しげも無く与えられる宝を断るのは本当に馬鹿なことだと思い直して、心の闘いを表に出さないようにつとめ、できるだけ汚い水をたくさんかけられたいと望みました。そして、こんなにも恵まれた場所に、この次も来ようと心に誓いました。」 意地悪をするシスターが、「自分の無二の親友」と思えるほど、寄り添いました。


1894年の初頭、(21歳)テレーズは胸に痛みを覚えましたが誰もそのことに気づきませんでした。彼女は、修道院の中で“一粒の砂”であることしか望みませんでした。「望むことはただ一つ、忘れられ、無視されること。」


彼女は結核のためにとても苦しみました。

「イエス様は苦しみのうちに十字架の上で亡くなりました。でもそれは、かつて見たことがない美しい愛の死でした。私は打ち砕かれて、神様の麦の粉とならなければなりません。主の無限の憐れみを必要とする私は、なんて幸せなのでしょう。」


やがて、彼女は、聖体を拝領できなくなりました。彼女は、自分の死が普通の死であることを受け入れました。「私は、死で死にましょう。」(最後の言葉 8月6日) 


彼女は自分の臨終が、十字架につけられた主、そして全人類への愛ゆえに死なれた主のように、全く慰めのないものと思っていました。

だから、テレーズは、最期の一息まで苦しむ覚悟でした。


主は十字架上で、ひどい苦しみのうちに亡くなられました。けれども、それは、人がかつて見たことのない最も美しい愛の死でした。愛に死ぬとは、喜びの熱情のうちに死ぬことではありません。私が今経験しているものが、それ、苦しみのうちに亡くなることであるように思います。(最後の言葉 7月4日)


テレーズは、死を前にして特別な恵みを受けたわけではありません。「小さい者」として普通に亡くなります。


もし、ある朝、私は死んでいるのをご覧になっても、心配なさいませんように。父でいらっしゃる神様が、私を迎えにいらしたまでのことですから。聖体の秘跡をいただけるなら大きな恵みに違いありませんが、もし神様がそれをお許しにならないなら、それもまた良いのです。すべては恵みです。(最後の言葉 6月5日)


けれども、たった1つ「普通でなかったこと」があります。それはテレーズが「天国に行く」と確信していたことです。


テレーズは、イエス様の「栄光」を私たちの人生で実現する道を示してくれました。「イエスの愛をどんなときにも信頼する」 「苦しくても天の国に入ることを確信する」 テレーズの霊性を思い倣っていきましょう。



ヨハネ13:31〜35 テレーズの霊性から


2025年5月18日 聖イグナチオ教会主聖堂祭壇

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