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姦通の現場を捕らえられた女 四旬節第5主日 ヨハネ8:1〜11

朗読された、姦通の現場を捕らえられた女の話は有名なので、映画でもこの場面が描かれています。


ある映画『イエスと二人のマリア』(ライフ・クリエーション 2013年)では、「姦通を犯した妻を石殺しにするのか? 許すか? どうするか?」は、夫に委ねられました。

この映画では、律法による裁きを夫が村人に求めて、妻は石を投げられて殺されます。「助けてあげて!」という娘の声に、父親は耳を貸しませんでした。痛ましい場面です。

別の映画『マリア』(エイベックス・エンタテイメント 2006年)では、「聖霊の力で身籠ったマリアをどうするか?」思い悩んでいたヨセフは、夢の中で、いいなずけのマリアにけしかけられて最初に石を投げようとします。そこで天使ガブリリエルが待ったをかけます。こちらは、救われた感じがしました。


2つの映画からわかるのは「誰か、最初に石を投げる人がいて石殺しは始まることです」

みんなが一斉に投げ始める訳でもありません。最初に投げる人の責任が、とても重要です。石殺しの始まりは、最初に石を投げる人でした。

このような背景を頭に入れるとイエス様の言葉が響きます。


「あなたたちの中で、罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」


イエスの前で、「罪を犯してない」と自信を持てる人はいませんでした。投げようと握っていた石が、自分の心に向けられます。一人、また一人、と石を置いて去っていきました。石殺しの恐怖の場面が、静かな心の振り返りの場面になりました。

私たちもこの場面を想像して身を置いてみましょう。


さて、相手に石を投げる、この「石投げ」、実は、わたしがいた、イエズス会の修練院にもありました。

もちろん、石を投げたら怪我をしたり、死んでしまいます。石投げ(ラテン語でラピダチオ)は、相手の欠点を指摘し合うものです。怖いですね。

修練長は「相手を罵倒するのではなくて、成長できるように忠告しなさい」と言いました。結果はどうだったでしょう?ほとんど効き目はありませんでした。

私について書かれたことは「食べるのが早い」「せっかち」「車の運転でスピードを出しすぎる」とか・・・「お前に言われなくても分かってる!」という内容ばかりでした。


その後、イエズス会の養成が進み、神父になってからは、もっと重要な人物評価を頼まれます。

インフロマチオと言いますが、「司祭に叙階していい人かどうか?」「最終誓願を立てていい人物か?」極秘で人物評価が依頼されます。これは、とても重要な役目です。自分の書いたことで、その人が叙階されないかもしれないからです。

心の中で、悪い印象を持った人についての依頼があって、これさいわいに「あんなことがダメ、こんなことがダメ」と辛辣なことを書いたとします。そうすると、「書かれた人よりも書いた人の方が評価されて」しまいます。書いた文書は、翻訳されてローマの本部に保管されます。かと言って、当たり障りのないことを書いたら人を見る目がないことになります。

祈りの中で、この人はこんなことができる、ここを改善したらもっと伸びる、そんな見方で書いていきます。書き上げても、すぐに提出しません。何日間か思い巡らし、ミサでもお捧げします。顧問の方、何人かからのインフロマチオを総合して、叙階させるかを決定します。

このインフロマチオを書きながら、神様のあわれみで自分は叙階させていただいたことを思い出します。足りない点を並べられたら、叙階されていません。これははっきりしています。人物を評価する側になって、自分は「裁く神」ではなくて「いつくしみの神」に育ててもらったことを実感します。


姦通の罪を犯した女性は、心の底から「ゆるす神」「いつくしむ神」を感じたことでしょう。

私たちは「裁く神」ではなく「励ます神」「いつくしみの神」を信じています。

足りないところがあっても、「ゆるす神様」「励ます神様」「力付けてくださる神様」を感じましょう。



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