福音朗読:ルカによる福音 18:1~8
今日は、祈りについて、イエスはたとえを通して大切なことを教えています。そこで、福音のテキストから多少離れるかもしれませんが、祈りについて大切な点を、私なりの体験を交えてお話しします。
イエスは、祈りの重要な点として“気を落とさないこと”を挙げています。それでは、逆に“気を落とす”とどうなるでしょうか? ついついネガティブに考えてしまいます。自分には才能がない、つてがない、お金もない、だから無理だ。もうよそう、とあきらめる方向に傾きます。前に進むエネルギーがそがれていきます。神様の前で祈っているつもりでも、実は思い悩んでいます。私たちはどうしても、思い煩いのために時間を使ってしまいます。自分自身で、思い悩んでいるなと感じたら、心を切り替えましょう。
具体的に、どのように切り替えるかというと、才能がないとか、つてがない、という足りない部分を主に願うのです。今日も明日も、繰り返し、繰り返し・・。それこそしつこく願い求めましょう。そのしつこさは、行動に表れます。やもめは何度も裁判官のところに押しかけています。私たちも、必死さを表に出しましょう。必死さは、体でも表現できます。適度な断食が挙げられます。ダイエットは、似ていますが美容と健康のためです。断食は、心と体が一体になった祈りです。断食以外には、やりたいことを我慢するなど何かの犠牲を捧げる方法で、祈りに切実さを加えることができます。
必死さは自分のうちだけに留めておく必要はありません。人にお願いすることが大切です。けれども、とかく遠慮をしがちです。ひとに迷惑をかけたくないからと、自分だけで処理しようとしがちです。けれども、結局苦しくなってさらに人に打ち明けにくくしてしまいます。一人でため込まずにどなたかに訴えてみましょう。そこから、何か展開が変わることがよくあります。人から願いごとを頼まれたら、熱心にとりなしの祈りを捧げましょう。ミサの前に、ロザリオの祈りをしましたが、ロザリオの祈りはとりなしの祈りとしてとても親しみやすい祈りです。願いごとを頼まれたら、聖母マリアにとりなしの祈りを捧げましょう。
私自身の歩みを振り返ると、神学生の頃、ある教会で入門講座をしていました。けれども、意気込みはあっても、なかなかニーズに答えられませんでした。何をしたらいいのかよくわからなくなりました。段々と参加者が減り、少ないときには、参加者はお一人だけでした。そうなると、気を落とします。失敗だったのではないか、ヘルパーの方のお手を煩わして申し訳ないので、もうやめてしまった方がいいのではないか、と思ったこともありました。けれども、何人来られるかは別として、できるだけの準備をするように考え方を切り替えました。そうこうするうちに、参加者が増えるようになり、祈り合える集いになり充実してきました。準備していても楽しくなってきました。けれども、また新たな壁にぶつかりました。「司祭叙階願い」をイエズス会の管区長あてに出す頃に、わたしはまた自信をなくしていました。将来イエズス会員として続けられるのだろうか?という不安がもたげていました。そんな頃、小聖堂でのロザリオの祈りの後、ある方からこのような声をかけていただきました。「柴田さんは、もう神様から選ばれているので何も心配いりませんよ」と・・。私は、祈るのではなく思い悩んでいました。このような言葉をかけていただき感謝の気持ちで一杯です。
私のように司祭を志す人は、恵まれていると思います。それは、何を望んでいるか誰からでもわかるという点にもあります。神学生にお見合いの話は誰ももちかけません。「いい神父さんになれるようにお祈りしています」と声をかけられたらこれ以上何も申し上げることはありません。けれども、信徒の方となると何を望んでいるのか、傍からでは分かりません。何で困っているのか、どうしたいのか、伺い知ることができません。そこが大きな課題です。だから、遠慮せずに声をかけましょう。やもめのように叫び声をあげましょう。何人かで祈ると力が加わります。私のところにも、祈りの依頼にいらしてください。
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