福音朗読:マタイによる福音 3:1~12
今日は、「主の道を整える」について考えます。
洗礼者ヨハネの「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という、言葉は、第1朗読のイザヤ書40:3節から取られています。
紀元前6世紀、バビロンで捕囚されていたイスラエルの民は、エルサレムへと還させる時に、神様が特別な近道を通されました。普通はユーフラテス川沿いに北上するルートを使うのですが、神様は、民を慰めるために、荒野に広い道を通して、まっすぐ西に進ませる道を作って、早く帰国させたことを意味しています。
福音では、同じ「主の道を整える」という言葉が使われていますが、意味合いが違ってきます。
バビロンからエルサレムと言う場所から場所へと移動する「道」のことではなく、信仰の「道」になります。「信仰の道」がでこぼこになっているからそれを「整えなさい」と言っています。
私の場合「整えなさい」と言われても、なかなか「整えられません」。その理由は、することの多さです。「どこまでしないといけないのか?」「どこからは断ったらいいのか?」 判断はとても難しいです。頼まれたことをしっかりしようとしたら、仕事以外のことに目を塞ぎます。
サッカーのワールドカップも見ていません。「それどころじゃない」というつもりで仕事をしています。でも、仕事は尽きることはありません。
健康で働けるだけ幸せ。やることなくなったときに比べて幸せ、と考えたりもします。
昨晩は、防災の実務チームの初めての集まりをしました。夜までにミサが3回あり、スケジュール的にきつかったですが、年内に実現できてよかったです。
メンバーの顔合わせして、これまでの防災計画の概略を事務の大塚さんにしてもらいました。その後、場所を移してヨセフホールの備蓄品を皆さんで確認しました。「どのように分けるか?」「部屋をどのように割り振るか?」さまざまな意見が出ました。嬉しかったのは、人の顔色を見ないで、意見が出し合えたことです。教会を愛し、信徒を愛し、帰宅できなかった方も受け入れようとする、熱意と優しさを感じました。
同時に、際限なく受け入れることもできません。許容範囲を見極めていく冷静さも必要です。
仕事が多くて凸凹だった自分が多少無理することで、整えられる体験でした。
私たちの凸凹したものは、プライドだったり、名誉だったり、妬みだったり・・・それらを突破するには、自分をかなぐり捨てて打ち込むこと。それが、周りの意見を出しやすくし、みんなが神様に向かっていくことだと感じました。
私が防災に関心を持ったのは東日本大震災です。3年前の年末には、山口県からグループで東日本大震災の被災地を車で巡りました。宮城県石巻市の旧大川小学校を訪ねました。そして、小6の娘さん(みずほちゃん)を亡くされた佐藤敏郎(中学の国語の先生)さんからお話を伺いました。
「目の前にいる子どもたちが、かけがえのない、いのち 一つしかない命をもっていて学校は安全で安心なところって言う前提がある。少なくても日本の学校はそうなんですよね。学校にいるから安心だって、私をはじめ、みんなそう思ってた。・・・それは、間違いじゃなかったというようにしたい。」 NHKスペシャル 3.11 あの日から2年 2013年3月8日放送 「わが子へ 大川小学校 遺族たちの2年」
宮城県の反省は「巨大地震と津波が来るよ」と聞いていたのに、「行動したくなかった」 家が流される、悲しむ人がいっぱい出てくる・・・そういう「未来」を想像したくなかった。だから「大丈夫じゃないか?」「大したことないんじゃないか?」と油断して、言い聞かせた。 違いますよね。私たちが想像しなければならない「未来」はものすごい津波が来ることを想像して、みんなが亡くなって悲しむのを想像するのではなくて、みんなが「念のため」に避難して丘の上で再会して「良かったね」と抱き合う「未来」を想像すること。その「未来」を作るのは「教育」。 脅しではなく、ハッピーエンドの「教育」そのためには現実を知って、「念のため」を深めていく。 (涙を抑えながら、みずほちゃんに、お父さんは伝えたよ)私たちの体験を使ってください。
ご自身の大切な大切な娘さんを失った辛い体験をされた佐藤さん。同じことを繰り返して欲しくない思いで、語り部をして、防災教育に出かけられる。 佐藤さんのお姿が、「多少無理してもやってみよう!」という気持ちさせてくれたことを思い出しました。 防災チームの皆さんが仕事の忙しさの凸凹を整えてくださいました。
「整え方」はそれぞれです。量を減らす方法もあれば、無理してでもさらに注いで整えられることもあります。皆さん、それぞれに整えてイエス様のご誕生の準備をしましょう。
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