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待降節第4主日

福音朗読:マタイによる福音1:18〜24

 

今日は、イエス様を産み育てるマリア様とヨセフ様について考えます。

まず、受胎告知の場面です。ガブリエルのお告げにマリア様は(新共同訳では)「何のことかと考え込んだ」と反応します。「考え込んだ」と訳されているのは原文のギリシア語で「ディエタラクティエ」という動詞です。強い動揺を意味する言葉です。マリア様にとって、ガブリエルのお告げは決して嬉しいものではありませんでした。 「どうしてそのようなことがありましょうか?」というマリア様の言葉からも、ガブリエルのお告げにマリア様が強いショックを受けていることがわかります。マリア様は、ガブリエルのお告げに喜び一杯というわけではありませんでした。

この「ディエタラクティエ」という動詞は、ヘロデ王にも使われています。東の国からやってきた博士たちから、「新しい王が生まれる」と聞かされた時、(新共同訳で)「ヘロデは不安を抱いた」と訳されているのが「ディエタラクティエ」です。不安を抱いた、動揺したヘロデ王は、イエスを殺しにかかります。ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいます。

待降節のミサで司式をする柴田神父

マリア様にとっても、ヘロデ王にとってもイエス様の誕生は人生がひっくり返る大きな出来事でした。でも受け止め方は真逆でした。

ヨセフにしても、人生がひっくり返る体験でした。幸せの絶頂、結婚前に、マリアが身籠ったことを知ります。当時の掟からしたら「自分の子ではない」公にしたら、マリアは石を投げられて殺されてしまいます。それを避けようと、ヨセフが密かに別れようとします。しかし、ヨセフは、神から特別に見込まれた信仰深い「正しい人」でした。眠りから覚めて、天使の言葉に従ってマリアを受け入れます。ヨセフは、人間的な自分を捨てて、神の計画に従うことにしました。

ある映画(「マリア」2007年日本劇場公開)の中でナザレからベツレヘムへと移動の間、マリアはロバに乗っていますが、ずっと歩き続けるヨセフの足は怪我だらけでした。疲れ果てて寝ている間にマリアはヨセフの足の怪我の処置をします。

その時、マリアはお腹の中のイエスに語りかけます 「お前を育ててくれるのは、善良な素晴らしい人よ。自分のことより人のことを考える人よ。」


やっとイエスが生まれると、「ヘロデ王が幼児の命を狙っている」とヨセフは夢で聞かされ、すぐに起きてエジプトに逃げます。 間一髪で、幼児イエスを守ります。父親として、妻マリアと幼児イエスを守るためにヨセフは必死でした。

自分のことは傍においても我が子を助けたい。親の子への強い思いは、マリアさま、ヨセフさまだけではありません。


昨日は、ある学校でクリスマスのミサを司式してきました。生徒さんのお祈りをご紹介します。


不安と悲しみを胸に、今を必死に生きているウクライナの方々に、救いの手が差し伸べられますように。また、祖国のために全力を尽くして戦っている兵士たちをお守りください。
神様、ウクライナでは、何の罪のない、一般の方々まで亡くなれています。ウクライナを守ろうと必死に戦っている人々、恐怖に怯えている人たちがたくさんおられます。どうか一刻も早く、救われますように。
家を離れ、異国の地に移った方々はとても不安な気持ちでいらっしゃると思います。神様、苦しい思いをしている方々を1日でも早く解放してください。
平和の中で暮らす、私たちに祈らせてください。幸せな人が、苦しんでいる人を見捨てて、置いていく、そんな世の中ではなく、世界の皆が、互いの平和のために、祈れる日が、いつか訪れますように。
毎日、ウクライナの人々が苦しんでいます。その中でも私たちは笑って平和な毎日を家族と過ごせています。そのことに感謝し、一日1日を大切に暮らすことができますように。

生徒さんの祈りから感じるように、家族の大切さ、平和への願いを強く感じた一年だったと思います。


主聖堂祭壇前に置かれた聖家族。主の降誕を待ち望む。

マタイは、福音書を「インマヌエル=神は共にいる」で始めています。そして、復活したイエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる=インマヌエル」(マタイ28:20)と約束します。「インマヌエル」で始めて「インマヌエル」で終えています。

苦しい時、辛い時、悲しい時ほど、神様が共にいてくださるに違いありません。


降誕祭で、私たち、苦しい人たちに「神様が共にいてくださる感覚」が持てるようにお祈りしましょう。





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