マタイによる福音6:1~6,16~18
皆さん、私たちは今日から四旬節に入りました。教会は、「回心」を呼びかけています。「回心」というと気が重くなる方もおられるかもしれませんが、キリスト教は「罪」と「罰」ではなく「罪」と「恵み」をセットで考えます。 「回心」は「神の恵み」に近付くことです。 洗礼を受けて長年経っておられる方「神の恵みは過去に縛られません」 洗礼志願者の皆さんは「あたらしい命」を復活祭でいただきます。 神様のさらなる恵みに近づけることを願って灰の水曜日のミサを始めましょう。
灰の水曜日、私たちは説教のあと額に灰を受けます。
灰は、命の小ささ・命のはかなさを表します。灰を受ける時「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と唱える場合もあります。
灰を受けて、神様から命をいただいたこと、その命を神様にお返ししていくことを確認します。
神様の前で小さな私たちに気づき、神様によって偉大なわざが実現することを思い起こします。
灰は、生身の私たちのシンボルです。どんなに頑張っても限界がある私たち。限界まで頑張っても「あれが足りない」と感じてしまう。さらに頼まれてしまう。
何とか一日1日が回ってる・・、そんな私たちに神様が働きかけてくださいます。
12月19日に入院された桜井神父さんのお見舞いに平日伺っています。老いや病気で今は働けない神父さんのリハビリ、お見舞いに行く神父さんは人の目に触れません。それでも毎日、地道な努力が続きます。それは、私たちの日常です。お仕事、食事の用意、子育て、親の介護・・人の目には触れない、努力を続けています。
そんな、私たちへのイエスさまからの言葉。
「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる。」
重要な言葉なので3回も語られています。私たちは、毎日たくさんのことをします。そして、時にはそのことによって満足もします。
何かをすることで報いを得ることもあります。でも、誰からも報いが得られないそのような時が肝心だ、とイエスさまは語ります。誰からも報いが得られない時こそ私たちは神さま前で真実です。行っていることの意味や実りをはっきりしない時、私たちは、神様の前で自由です。人生の中で、このことがわかると救いになります。私は神様の前に真実であり、自由であり、主も私を知っておられる。主は密かに私に報いてくださる。
私たちに、このことがわかりにくいですが、これは事実です。
主は密かに私に報いてくださることがわかると、私たちは、見えないことが見えることよりも豊かであることを理解します。
そして、私たちの生活に永遠の命が入り込みます。この様な体験できる時、慰めを感じます。私たちの人の目に触れない生活に、神の恵みが働いていることを体験します。
「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる。」とは、灰に過ぎない私たちの、人目につかない努力が、永遠の世界に入っていること教えてくれます。
今日は大斎です。朝食を半分以下、昼食は通常通り、夕食を半分に減らすなど十分な食事をこの日は1回だけにして、犠牲を捧げます。
四旬節には、今日と聖金曜日が大斎に当たり、60歳以下の健康な成人に義務付けられています。もちろん、断食して節制することは大事ですが、断食とは自分の食事の量を調整することではありません。イザヤ書58章の6節以下にこうあります。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」
このような「断食」、弱っている方に寄り添う気持ちを四旬節の間大事にしましょう。
今日からの四旬節は、洗礼志願者のために祈る46日間です。今年は80人の方が洗礼志願式に与ります。ご葬儀、人生の転機、永遠の命への憧れなどを通して一人一人に神様が計らってくださいました。そして、80人の方は神様が導いていただく人生を選ばれました。洗礼志願式は神秘です。神様からのさらなる恵み、新しい命を、いただけるよう共に歩んでいきましょう。
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