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年間第27主日 初ミサのお説教

更新日:2022年10月22日

2010年9月23日の叙階式の後、初ミサでのお説教です。

福音朗読:ルカによる福音 17:5~10

 

初ミサ・説教代の柴田神父(2010年10月3日)。
初ミサの柴田神父(2010年10月3日)

皆さんおはようございます。10日前に叙階した柴田です。今日、初めてイグナチオ教会で説教させていただきます。

からし種は、1~2ミリの小さな種で、本当に小さなものです。けれども、イエスは、その小ささに無限の可能性があると言われます。今日は、この小さいからし種と私の召出しを重ね合わせてお話しします。


わたしは、イエズス会に入る前、住宅会社の営業を12年間していました。その間に、業績がいい時あれば悪い時もありました。業績が上がらないと何でも否定的に捉えます。自分は、役立たな給料泥棒だ、いない方がましだと、自分の存在を否定するようになります。「どこにも自分の居場所がない。いっそどこかへ消えてしまいたい」と思うこともありました。ある日も、そんな気持ちで、車の中で信号待ちをしていました。すると、車のガラスをコンコンと叩く音が聞こえました。何だろう?とパワーウインドをおろすと、あるご婦人が「駅に行くにはどうしたらいいのでしょう?」と道を私に尋ねました。私は、自分は何の役にも立たないと思っていたので、うれしくなって道を教えました。人と人が久しぶりに触れあえたような、人間らしさを取り戻したような感じがしました。そのことがあって以来、落ち込んだり孤独を感じると車のガラスをコンコン叩いて気を紛らすようになりました。ちょっと暗いですよね・・・。そのうちに、自分のように打ちひしがれている人が世の中にどれくらいいるだろう?と考えるようになりました。日本のサラリーマンは、4000万人以上いると言われています。そのうちの半分以上、いや、ひょっとすると大部分の人たちは、自分と同じようなみじめさ、孤独、不安を感じながら仕事をしているかもしれない。徐々にわたしは、その人たちを救いたい、疲れている人を休ませたい、という望みを持つようになりました。


その望みに、どれだけの可能性があるかわかりませんでしたが、望みを頼りに、会社を辞めてイエズス会に入りました。それから、10年半後、すなわち、10日前にこの教会で司祭に叙階されました。



わたしの召出しは、みじめさと孤独の中で車のガラスをたたくところから生まれました。司祭に叙階されたことは、小さな種に芽が出て可能性が膨らんだと言えるでしょう。けれども、4000万にいるサラリーマンの一体何人を司祭となった私が救えるのか?という疑問もあります。これから、元気に30年働いて何人が救われるでしょう? 数字で考えれば、大したことない。微々たるものです。けれでも、この種は神様からいただいたものです。多いに越したことはありませんが、神様の思いは数字で測ることはできません。大勢の中のわずかだから、焼け石に水だと思ってがっかりする必要はないのでしょう。


皆さんはどんな種を神様からいただいているのでしょう? 種は小さいのではっきりと見つからないかもしれません。可能性が低いからと、見過ごしているかもしれません。それでも、神様は一人一人に、願いと期待をこめて種を与えられているはずです。その種を見つけましょう。見つけたら、神様からいただいたものとして大事に育てましょう。初めは小さくても、大きな可能性が秘められています。きっと、神様はその種をきっかけに、世の中の苦しんでいる人を救おうとされているのだと思います。私たちが、小さな種から始まって、芽を出して、神様の救いを世の中に伝えられるように、その恵みをこのミサで願いましょう。




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