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年間第2主日 洗礼者ヨハネ

福音朗読 ヨハネによる福音書 1:29〜34

 

今日は洗礼者ヨハネに焦点を当ててお話しします。洗礼者ヨハネがイエス様の先駆者と言われているのでその点を考えます。

岐部修道院の入口から見た冬空のソフィア通り

ヨハネは、祭司ザカリアの子です。祭司の務めは、いけにえをささげるなどの神殿儀式を司ることです。祭司の息子だから、普通なら世襲(親の後を継ぐ)でヨハネも祭司になったはずでした。旧約の時代は、いけにえをささげる神殿中心主義でした。ヨハネはこのしきたりに悩みました。祭司として生きても信仰を大事にできないことに気付いたからです。

ヨハネが選んだのはエルサレム神殿とは正反対のユダの荒野でした。全く違うところで、どう生きるかを考えました。そして、罪のゆるしのために人生をささげる道を選びました。彼は、水で心を清める決断をします。それは、ユダヤ教ではリムレという神殿参りの直前に身を清める儀式の発展です。ヨハネはそれを荒野に持ってゆき、身を清める儀式を違う形でよみがえらせました。

このようなことを考え出した洗礼者ヨハネは、注目されました。 神殿に参っても信仰を生きられない。だから、ヨルダン川で同じことをして“清め”の意味を変えました。大変なことを思い付いたので預言者と絶賛されました。神殿でささげ物を買うのに、子羊一匹でも大した額になります。だから、大多数の人は神殿に行けませんでした。ヨハネのもとに集まったのは、貧しいけれども真剣に生き方を変えたい人たちでした。お金もかからなかったので行列になりました。儀式や形式よりも、信仰が一番大事。だからイエスも洗礼を受けました。

ヨハネを見て、何が信仰に大事なのかイエスも感じました。信仰を生きるとはどういうことか? 儀式や形式を整えればいいと言うものではない。ヨハネもイエスもユダヤ教の信徒でした。「信仰はとは何なのか?」 問い詰めていきます。


2023年1月15日 年間第2主日ミサ 閉祭のあいさつ
年間第2主日ミサ

私も、信仰を生きるとはどのようなことか考えていました。2年前に放送された番組がヒントをくれました。

「あしたも晴れ! 人生レシピ“わたしの使命”」(2020年12月4日放送)と言う番組の中で 藤藪庸一(ふじやぶよういち)牧師さん(白浜レスキューネットワークの代表理事で50歳。自死願望のある方に共同生活できるように住まいを提供し、相談に乗ったり就労支援をされています。また、若い人への勉強の指導もされています。)がこう言われていました。


小学生の時、海外の難民のために1円募金を始めた時のこと。自分なりに貯めたものの、数えてみたら大した金額になりませんでした。そのことを母親に話した時こう言われました。

「自分のお小遣いをひと月分でも全額募金する気はなかったの?」 

言われてみればその通りだし、自分はやってる気になっていた。「やってる、やってる」と自信があった。でも自分が痛まない程度のことしかしてなかった。それで人助けをしている気になっていた。

その経験から「本当に人を助ける人間になりたい」という目標ができた。26歳で牧師の道を選ぶことになりました。24年間、自分の時間ほとんどないほど、今の自死予防の活動に力を注いでいます。これまでに自死を考えていて保護した方は1,260人にもなります。 

この活動をする中で「人が生きる気持ちに向かうには、ささやかなことがきっかけになることがある。」 

そう思った忘れられない出来事があります。自死を考えていた60代の男性が3日間、飲まず食わずで三段壁(和歌山県白浜温泉)に座り込んでいました。近くを通り過ぎた女子学生が、その男性のところに戻ってきてこう言ったそうです。

「おっちゃん、バカなことをしたらあかんで。死んだらあかんで」って言ったそうです。

自分の財布から2000円出して、握らせてくれて・・・思いがけない優しさに触れ、男性は自死を思い留まり、藤藪(ふじやぶ)さんに公衆電話から連絡をしました。その第一声は「あの女の子にお礼が言いたい」でした。


藤藪庸一(ふじやぶよういち)牧師さんの生き方を変えたのは「やってる気になってないか?」という自分自身への問いでした。 洗礼者ヨハネは「信仰とは何か?」を問い詰めました。そして人々に、またイエス様に影響を与えました。私たちも、信仰者としての生き方を問い直してみましょう。



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