福音朗読:マタイ17:1~9
四旬節、回心の歩みを続けている私たち。一人一人、光り輝くとき、罪に沈むとき。イエス様のように光り輝けることを願ってミサを始めましょう。
真実の程は分かりませんが、このような逸話があります。
レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」を描くために、弟子の12人とイエス様のモデルを探していました。「この人はペトロに、この人はアンデレに!」と声を掛けていきました。
ある時、とても光り輝いた、とても素晴らしい方と出会いました。そこで「この人がイエス様だ!」と思ってモデルになってくれるように声を掛けました。しかし、イスカリオテのユダがなかなか見つかりません。ユダの心の中の罪の深さを表現できそうな人がなかなかいません。
探し続けていたら、とてもがっかりして暗い顔をしている人に出会います。ダ・ヴィンチは彼に声を掛けて、「申し訳ないですが、イスカリオテのユダのモデルになってもらえませんか?」と頼みました。 すると彼はとてもさびしい顔をして、こう答えます。
「実は、2年前、あなたからイエスのモデルを頼まれました。その時はよかったんですが、そのあと人生がガタガタになって・・・罪や自分の欲望にとらわれて、最低の生活をしているんです。」
ダ・ヴィンチも大変驚きました。同じ人が、イエス様のモデルになるし、ユダのモデルにもなる。
この話は、私たちが、イエス様のように輝く生き方もできるし、そうでない生き方、神様から離れる生き方にもなることを語っています。
イエス様のような光り輝く生き方とはどのようなものでしょう?
今日は「平和な状態」、「平和でない状態」で考えています。
あるカトリックの女子校 高校2年生に行った「平和学習」の感想からです。
平和な状態
朝、いつも通り学校に来れること。
家族にわがままを言えること。友達と他愛のない話ができること。
嫌いなことよりも好きなことに夢中になれる
相手を思いやれるゆとりがあること。
何かをしたら成果が生まれる期待が持てること。
平和の裏で国民を守ってくださっていることに気づけること。
話し合いでなんとかなると期待を持てること。
学校を卒業して10年後に、それぞれが違う場所で花を咲かせていると期待できること。
平和でない状態
一日1日を生き延びることが大変で、心の休まる時間がないこと。具体的には、今、ウクライナ戦争で、いつ攻撃してくるかわからず危険と隣り合わせの生活を送っていること。
同じ種族の人間なのに地域紛争で殺し合っている状況。
食べるものがなく餓死してしまう状態。
誰かがいつも我慢している状況。
自分の身を守ることに必死で善悪の判断がなくなること。
自分の利益のためなら平気で人を敵に売ること。
思っていることが言えない状況
大きな我慢を抱えた上で成り立っている平和。それはいつか壊れる。
一人が大きく我慢してしまっていては「平和」は成り立たない。
自分の中に溜め込んでいっぱいいっぱいにならないことが「平和」につながる。
先程のダヴィンチからイエス様とイスカリオテのユダのモデルを頼まれた人も、高校生の感想文のように、平和な状態から、平和でない状態に変わってしまいました。
今のわたしはどうでしょうか? 無理してゆとりを失っていないでしょうか?
一人一人が、イエス様のような「光輝く状態」「平和な状態」になれるように願いましょう。
Comments