福音朗読:王であるキリスト ヨハネ18:33b~37
今日は、王たるキリストを記念しますが、まず旧約の王の歴史から振りかえります。
アブラハム、モーセが活躍した時代は“族長の時代”と言われ、イスラエル12部族の緩やかな宗教連合でした。その後、外からの敵に対して“士師“と呼ばれる超人的な指導者が共同体を束ねるようになりました。その後、ぺリシテという強国がイスラエルを脅かしてきたので、イスラエルの民は王を望むようになりました。紀元前1000年頃から王制が定着し、ダビデ王、ソロモン王の時代に頂点を迎えます。
けれども、その後、イスラエルの民はバビロン捕囚などの憂き目にあい、周りの強い国からの脅威にさらされます。イエスの時代も、ローマ帝国の支配されていました。民衆は、癒やしのわざを行うイエスに、ダビデ王のように戦に強くて、イスラエルを繁栄させてくれる王を期待していました。
福音の中でピラトがイエスに「お前が王なのか?」と繰り返し聞いています。もし、ダビデ王のように容姿が整った、才能がありそうな人なら迷わず殺していたでしょう。でも目の前のイエスは弱々しくて痛々しい。「こんな弱々しい奴なら殺さなくていいじゃないか?」と馬鹿にしていたのでしょう。 目の前のイエスは、とても“王”とは呼べない惨めな姿でした。
イエスは、その時何をしたでしょう。イエスは、ピラトが自分を死刑にする権限を持っていることを知っていました。普通このような場合、自分弁護したり、相手から哀れみを得て、助かろうとします。 でもイエスは、命乞いをしませんでした。
『私は真理について証しをするために生まれた。」と言います。切迫した場面でも、ピラトを真理に目覚めさせようとします。
追い込まれても、自分のことよりも相手のことを考える王さまです。
では、イエス様は、自分のことをどう理解していたでしょう?
ヨハネ福音書10章にある牧者や羊飼いなどの喩えを使って自分のことを説明します。自分の命を与える羊飼いの姿で自分自身を語っています。ダビデ王のような輝かしい王としてより、人に仕える者と理解していました。
そして最後は、政治犯として十字架上で死にます。これが、ヨハネ福音書記す“王”の姿です。ピラトをはじめ誰も、惨めな姿からイエスを”王”とは思いませんでした。
王は、民を支配するもの、という既成概念がイエス様によって打ち崩されます。人々の罪を背負って十字架にかかる王。自分を分け与える王。私たちはイメージできるでしょうか?
ピッタリする例か分かりませんが、最近葬儀の打ち合わせをした方のお話を紹介します。
戦争の時期、米櫃から毎晩「お米を盗まれている」ことに気が付きます。お米の上に手形を作りますが、翌日には崩されています。犯人の目星はつきました。
「どうしようか?」
「お米を必要としている人がいる。」
「それならば、お米が減った分、大根を足して量を補おう。」
「苦しい時期を共に乗り越えよう。」
「分け与えるのは当たり前」
「お隣さんみんなが心配」
戦争で家族を失った身寄りのないご近所の子どもを成人するまで育ててあげます。無償の愛を注ぎ続ける。ずっと時間が経って「一人前になっています」と、警視庁で偉くなって挨拶に来られた。
懲らしめよりも憐れみを与える姿に、無償の愛を注ぎ続ける姿に新しい王としてのイエス様を想像します。 支配する王よりも、民の僕になる王、困っている人に分け与える王を私たちも目指していきましょう。
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