「祖父母と高齢者のための世界祈願日」に向けて
私たちはいくつになっても、「神は今私にどんな使命を与えておられるのだろう」ということを考えなくてはならない。使命感を持つことは、健康な時、心身ともに元気な時には易しいことであるが、弱くなった時、病気や年をとった時には難しくなってくる。ほんの少し前、隣(ロヨラ ハウス)に住んでいる高齢の会員たちを訪ねてこのように思ったのであるが、人生それぞれの時に使命感を持たなくてはならない。私たちが働ける時には、使命感を持つのは比較的簡単である。一方、体調が悪い時は、聖霊の恵みによって使命感が与えられ、前に、神のため、教会のため、また愛する人達の成長のために自分の人生を捧げていたのと同じ様に、自分の人生を捧げることができる。このようにイエスは、「人生いかなる時にも、あなたには、果たすべき使命がある。あなたの働きは、私にとって重要である。あなたは大切なことを成し遂げなくてはならない。それゆえ、私にはあなたが大切である。」と言って私たちを慰めてくれる。私たちは、神がいつでも私たちの心の中にこの使命感を持たせてくれるよう、私たちが無力感やフラストレーションを持たないように、熱心に祈らなくてはならない。自分はもはや役に立たないという思いは、非常に大きな誘惑である。復活したイエスは、弟子たちに現れて、しっかりとした使命感を持たせ、彼らに、自分の人生が大切なものであるという強い自覚を持たせる。
イエズス会 日本管区黙想会 マルティーニ枢機卿指導 2000年3月5日〜10日
第11講話 結びの黙想より
福音朗読:マルコによる福音 8:27~35
今日はペトロの歩みを振り返ります。
群衆が神の言葉を聞こうとイエスのところに押し寄せます。(ルカ5:1)
時のひとイエス様はペトロに船を出して欲しいと言われ、うきうきしていました。
ところが、「沖に出て漁をしなさい」とイエス様は言われてペトロの機嫌は一変します。玄人の自分からしたら魚のいる時間ではない。もし何も獲れなかったら恥をかく。やっても無駄。
「家に帰ろうか?」イエス様の招きにペトロは躊躇したでしょう。
でも、「みことばですから、網をおろしてみましょう」 試練を乗り越えることができました。
この言葉で、ペトロは神様からの呼びかけに応えるモデルになりました。
それ以来、ペトロはリーダーのつもりで弟子たちを引っ張ります。
そして、今日の箇所です。
「それでは、あなたたちは私を何者だというのか?」
「あなたはメシアです」
ペトロは的確にイエス様の問いに答えます。イエスの信頼に応えた優等生の言葉に聞こえます。でも、実際ペトロは何もわかっていませんでした。
「人の子は多くの苦しみを受け・・・排斥されて殺される」
イエス様の受難予告の言葉にペトロは強く動揺します。「すると、イエス様を脇へお連れしていさめ始めた。」イエス様は「サタンよ、退け」とペトロを叱ります。
「どうしてこんなことを言われるのか? 何を悪いことをしたのか? イエス様のためを思ってしたのに・・・今は、私のことを怒っておられる。イエス様についていきたいが分からない。」
ペトロにまた、試練が訪れます。
ペトロには「私は主の側についている。自分が弟子の筆頭だ」という自負心があります。ペトロは旧約で教育されています。神は偉大な方、力強い方、敵を打ち負かすヤ-ウェを見て育っている。イエス様に、力ある姿しか想像できませんでした。ペトロは自分のさじ加減でイエス様の生涯も変えられると思っていました。
そんなペトロに「あなたは神のことを思わず、自分のことを思っている」と言われます。
ペトロがこの試練を乗り越えるのは後になってから・・・イエス様を3度否む、辛い体験をしてからです。3度、イエス様を否んで、イエス様から赦されてペトロは気づきます。
ペトロはイエス様を救いたかった。でも、ペトロを救ったのはイエスさまの方でした。私の「計画」が、神さまの「計画」によって覆されます。ペトロが遠ざけたかった十字架がペトロを救います。立場が逆転します。ペトロは、イエス様を守るのではなく、イエス様に守られます。イエス様に赦され、救われます。この体験がペトロを本物のリーダーにしていきます。
私たちも、自分こそが神の国を築いている、信徒のリーダーだ、と思っているかもしれません。強いリーダーシップが必要だと思っているかもしれません。でも、そうではないようです。
3度否んでしまった後のペトロの姿の方が、本当の弟子のリーダーなのでしょう。
神様の哀れみと赦しがあって自分がある。神様からの無償の恵みが自分を支えている、とペトロは痛感しました。
最初にイエス様に従ったペトロ。3度否んで、屈辱を味わって、本物のリーダーになったペトロ。痛みを通して本物の弟子となったペトロの生涯を思ってミサを続けましょう。
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