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主の公現

福音朗読:マタイによる福音2:1~12

 

今日は、主の公現のお祝いです。説教を考える前に「占星術」をネットで検索しました。すると「脅威の的中率」「占星術の資格で自宅開業の夢を実現!」など、商売に結びつける謳い文句でした。

では、聖書の占星術の学者はどうでしょう? 彼らは、政治に口を挟めるほどのエリートでした。そんな彼らは私財をなげうって特別な星を追い求めました。お金になるとかじゃなくて純粋にワクワクして星を追いかけました。そして、幼児イエスを丁寧に礼拝し、贈り物を献げました。


一方、ヘロデ王はどうでしょうか?ヘロデは、自分の権力を守るためなら残酷な王でした。自分の息子の一人、妻の一人、おい・・・親戚を何人も殺す残忍な王様です。そんなヘロデが「新しい王が生まれると聞きます。そして「不安に思います」 「不安に思った」と訳されているのは原文のギリシア語ではディエタラクティエという動詞です。強い動揺を意味する言葉です。

他に新約聖書で使われているのは受胎告知の場面です。ガブリエルのお告げにマリア様が反応した時にもディエタラクティエが使われています。

(新共同訳では)「何のことかと考え込んだ」と訳されています。マリアさまにとって、単純に喜べない驚きがわかります。「どうしてそのようなことがありましょうか?」というマリア様の言葉からも、マリア様が強いショックを受けていることがわかります。ガブリエルのお告げにマリア様も動揺していました。 同じように動揺した、不安を抱いたヘロデ王は、イエスを殺しにかかります。ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいます。


占星術の学者たちは財産を投げ打って新しい星を追い求め、幼な子に出会えたらひれ伏して拝みます。一方で、ヘロデ王は幼児を殺そうとする。ベツレヘムで生まれる幼児を巡って、占星術の学者とマリア様、ヘロデ王にはこれだけの違いがあります。


この違いをどう考えたらいいでしょうか? ここまで両極端ではないですがわたしの体験を振り返ります。もう20年以上前になります。12年働いた会社を辞めてイエズス会に入るか? それともサラリーマンとして続けるか? 悩んでいた時のことです。会社員の経験を捨てて、10年かけて司祭を目指す。 気が遠くなるように感じました。 それに途中でダメだったらどうなるだろう? 元の職場に戻るんじゃなくてマイナスになってしまう。 それを考えると怖くなります。

迷っている私にある神学生がアドバイスをくれました。


「“できるかどうか?” “経験を捨てて惜しいかどうか?” ではなくて“光”が見える方を選んだらどうですか?」


“光”というのは、「期待できる」「苦労してもやってみたい」そんな心の動きです。「光」を追い求めたら「会社員を続けた方が無難」という考えはなくなっていきます。「光」は現実逃避とは違います。会社員から逃げ出すのなら行き詰まってしまうでしょう。心の中にある「光」を追い求めて20数年が経ちました。

みなさんの中にも信仰に入る時に「光」を見つけて追いかけ始めたでしょう。その後、「光」が弱くなったり、消えてしまったように感じたり、より強く感じたり・・・さまざまな経験を経て今日に至っているでしょう。


始まった2023年にも、「光」を見つけるでしょう。「光」に対して、占星術の学者の態度を取るのか? ヘロデ王の態度を取るのか? 私たちに委ねられています。 みなさんで「光」を追い求める1年を始めましょう。「星、光、明るさ」をやり過ごさないで追い求める一年にしていきましょう。




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