『み心の信心のすすめ』(ベルナール・デクルー、クリスチャン・ゴー著、椿歌子訳)
マザーテレサは、愛の反対は無関心と言いました。イグナチオは、愛の反対は、恩知らず、だと言います。同じことが「み心の信心」にも言えます。
まず、信心ですが、よく実践されているのは、ロザリオと十字架の道行です。
ミサが、フルコースのご馳走と考えたら、表現は良くないかもしれませんが、信心は粗食かもしれません。でも、ご馳走ばかりでは、ご馳走の意味がわからなくなります。ミサを補う信仰表現、生活の中で実践できる信仰表現がやはり必要です。ミサと信心が合わさって、信仰が生活に溶け込みます。
「み心の信心」はイエス・キリストの「み心」、実際のイエス様の心臓の形を思い浮かべて黙想する信心です。イエスの受難を心に深く刻み込む信心です。
17世紀、フランスの片田舎の観想修道院のシスター、マリア アラコックに神様からの啓示がありました。イエスの燃えるような心臓をみます。「私はこれほど人々への愛に燃えている」という意味が、イエス様ご自身の「心臓の形」で現れました。「み心」の信心は世界中に広がります。初金は、イエスのみ心への信心です。「み心」という名前のついた学校だけでも世界中にたくさんあります。「聖心」もその1つです。
さて、イエス様は、マリア・アラコックにどんなことを語って、心臓を示されたのでしょう?
「ご覧なさい。この心臓(心)は、あまりにも人々を愛したので、蓄えが何もありません。この心は、底をつくまで人々を愛しました。ところがそのお返しに、私が受けたのは恩知らずなことでした。馬鹿にされたり、無視され続けました。何も無くなるまで愛した報いがこれです。しかも、神に身を捧げたはずの司祭や修道女が恩知らずなことをしています。」
「愛を与えているのに愛が返ってきていない」アラコックは、キリスト者を目覚めさせる、使命を受けました。アラコックは、「み心(イエス様の心)」の名誉を回復するために、また、さめていた信仰を燃えさせる使命を受けます。
この使命に、イエズス会のクロード・ラ・コロンビエール神父が協力します。イエズス会は、「み心」の信心の普及に努めています。それは、イグナチオが、神への恩知らずを重い罪と考えたのと重なります。
神様の愛を受けて何も感じない。逆に、神様を無視する、ないがしろにする。これは、イグナチオには、許せないことです。
私たちは、どれほど、神様から恵みを受けているでしょう? 洗礼の恵み、聖体の恵み、赦しの恵み・・・これらをもらって当たり前、自動的にもらえる、そんな思い違いをしていないでしょうか?
神様への恩知らずになっていないでしょうか? み心の信心で神様への愛に燃える恵みを願いましょう。
私自身も、イグナチオ教会で叙階の恵みを受けましたが、ミサを司式できる恵みを当たり前と思わないようにしたいです。
恩知らずではなくて、しっかりお返ししていく。その恵みをご一緒に願いましょう。
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