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聖霊降臨の主日 使徒たちの宣教2:1〜11

 今日は聖霊降臨のお祝いです。聖霊が降りて、教会は“神のみことば”を伝える、宣教を始めます。その弟子たちの行動について考えます。

 聖霊降臨はとても大きな喜びでしたが、お祝いモードに長く浸れたわけではありません。すぐに試練が待ち受けていたからです。弟子たちが“神のみことば”を伝え始めると、敵(律法学者たち)はすぐに止めようとします。ペトロとヨハネが法廷に連行されて、尋問されます。そして「主のみ名において語ってはならない」と命令してきます(使徒書4章)。律法学者たちは“神のみことば”を語る自由を奪おうとしてきます。 共同体がこの試練に対して何をしていたかというと「祈っていました」。逆境と迫害が始まるときに、共同体は祈っていました。 普通なら、集まって話し合って、逃げる計画を練るかもしれません。でも、使徒書ではそれについて何も書かれていません。試練の中にあって最も重要なこと、つまり「共同体で祈って」いました。


 このことは、私たちの反省材料になります。共同体に何か問題が起きると、知恵を集めて策を練るでしょう。それも大切なことですが、もっと大事なのは“祈る”ことです。皆で心を合わせて祈ることです。彼らを脅かしている問題(共同体が散りじりにさせられる)に問題に直面したとき、初代教会の信者たちは、祈ることで一致団結しました。 


 では何を願っていたのでしょう? 彼らは、敵からの保護を求めていません。「苦境を無くしてください」とは願っていません。復讐も求めていません。共同体は自分たちに起きていることを頭で理解しようとしました。そして、イエスに起きた迫害が自分たちにも起こるのは自然なことだとわかりました。試練は“災い”ではなく“迫害されるイエスに組み込まれること”だと理解しましました。 続いて“神のみことば”を告げ知らせるように熱心に祈りました。謙遜な心で“みことば”を宣べ続けられるよう願いました。 それから、病気の癒し、奇跡を願いました。

 “神のみことば”は、抽象的なものではなく、具体的に人を助ける神のわざです。共同体は、力ある“神のみことば”の働きを願いました。


 聖霊降臨の意味を整理してみます。聖霊降臨は、迫害と試練がセットです。 喜ばしいものというより「試練にときにどうするか?」の準備です。 私たちも、教会から一歩出たら、“神のみことば”とは違う価値観、ルールの中で生活します。ときには、闘わなくてはなりません。そんなとき、まず初めにすることは「祈ること」です。“神さまの思いを実現させてください”と静かに祈ることです。個人だけでなく、仲間と一緒に祈ることです。  その次に“神のみことば”が伝えられるように願いましょう。実生活では、伝えるのは、聖書の言葉というより行動です。人への親切、優しさです。 前回の子どものミサでもお話ししましたが、日本に来られた難民のことを考えてみましょう。命からがら逃げてきたのに、お金もなくなり、路上生活になってしまう人もいます。言葉が通じない上に、コロナの影響を受けています。孤独に陥って失望してしまう人もいます。そのような方を思いやることは“神のみことば”です。支援を受けた人は、神様からの優しさを感じます。

 使徒書4:31にこうあります。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」 今は、行動が制限されていますが、自由に支援活動ができる時のために、祈り、準備していきましょう。

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