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聖家族 (ルカ2:41〜52)

救い主として生まれたイエス様を、ヘロデ王が殺そうとしたので、聖家族はエジプトに逃げました。エジプトのカイロでは、聖家族の日1つの木のもとに集まってを祝うそうです。その木には「聖母マリアが疲れた時に休んだ木」という言い伝えがあります。


昔からアラブの人たちは初めて来た人たちを持てなす、ホスピタリティの精神にあふれていました。聖家族も移り住んだ頃は、エジプトの人たちのお世話になっていたのだろう。だから、自分たちも住み慣れない人たちに奉仕する決心を新たにしているそうです。


幼子イエスは、エジプトでマリアとヨセフの苦労を見て育ちました。親の言葉と周りの言葉が違うことにも気づいたでしょう。自分の家が他と比べて貧しいことにも気づいたのでしょう。貧しい生活を肌で知っていました。だからこそ、宣教の間、貧しい人、弱い人に特別の愛情を注ぎました。イエスは貧しさに引け目を感じるのではなく、貧しい人とつながって生きるようになりました。ヨセフとマリアから愛情をもらって育ちました。このような家族を、今日私たちは聖家族としてお祝いしています。


さて、今日の神殿での失踪事件は、イエス様の幼年期に起きたとても重要な出来事です。

イエス様は失踪事件を、聖家族から、御父への移行の前ぶれだと感じたでしょう。


「祭りの期間が終わって・・・少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気付かなかった。」


「残る」の語源は「住む」「留まる」です。イエスが神殿に「残る」ということは、神殿に「住む」ということです。イエス様の居場所が、聖家族から神殿に移る、ということです。


このイエス様の神殿への親近感に対して、両親の無理解は対象的です。

普通、母親は子どもが何に興味を示すか知っています。親の目を逃れて行こうとする場所さえ知っているものです。でもマリア様は、息子イエスの行動を予測できませんでした。マリア様の戸惑いは、とても深かったでしょう。


探し回った両親に、イエスは

「どうして私を探したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だと言うことを知らなかったのですか。」

と言います。


「しかし、両親には、イエスのことばの意味が分からなかった」 会話がかみ合いません。

イエス様の生涯を決めていく出来事の神秘を、マリアとヨセフは何のことかさっぱり分かりませんでした。動揺した母親にイエスは答えていません。あのマリア様も息子が理解できませんでした。

でも、マリア様は、「わたしの子育ては失敗だったのか?」とは思いませんでした。マリアは「神殿でイエスを見失った出来事」を「心に留めました」。マリア様は、してしまった間違いをくよくよ気に悩まず、沈黙の祈りのうちに出来事を受け止めます。 


皆さんの家族でもうまくいかないことがおありでしょう。子どもの思いに気づけなくてすれ違う。「うちの家族はこうなんですが・・・」と悩みをマリア様に話してみましょう。するとマリア様はこう答えるでしょう。「私たちも同じですよ。私たちはエジプトでの慣れない生活で苦労しました。でも、あなたも信仰を生きにくい今の日本で頑張っていらっしゃるじゃないですか。うちのイエスの代わりに、お子さんを大切に育てていらっしゃるじゃないですか! よくやっていらっしゃいますよ。時々休むことが大切ですよ。私も、木の下でよく休みました。いろいろな愚痴や不満を神様に聞いてもらって癒されました。」


信仰を生きる難しさを聖家族はよくご存じです。

この1年、家族にいただいた恵みに感謝しましょう。新しい一年も聖家族に倣っていきましょう。

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