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心に納めた(神の母聖マリアの祭日、ルカ2:16〜21)

 ベツレヘムでのイエスの誕生を「(羊飼いの話を聞いた)人々は不思議に思った」とあります。一方のマリア様は「すべて心に納めました」。マリア様は、ただ記憶に留めたわけではありません。毎日、イエスの子育てを精一杯していました。そして、不思議なこと、理解できないことがあると「神様のお望みはどこにあるのだろう?」と感じながら「心に納めました」。少年イエスがエルサレム神殿で迷子になる時がその例です。マリア様のような厚い信仰があっても理解しかねる。その度ごとにマリア様は「心に納めました」。


福島のボランティアでの出会い


 「心に納める」・・・ピッタリするかどうかわかりませんが、私にとっては東日本大震災と原発事故は、とても大きな出来事であり続けています。2011年から2019年まで降誕祭の後は福島に行ってきました。年末のボランティアは、学童保育の手伝い、幼稚園の預かり保育の手伝いなどでした。ある幼稚園では、前回の(9ヶ月前の春休み)の記憶があって、内心、気が重くなっていました。遊び道具の取り合いになって手が出てしまったり、心無い言葉が飛び交ったり・・・山口の幼稚園が優しい言葉が溢れているのに比べて心が痛んでいました。原発事故の影響で先生も不足し、保護者も子育てに手が回ってない印象を受けていました。


 「今回はどうかな?」と子供たちの様子を見ていると、かなり落ち着いていました。先生たちの話を聞けるようになってもいました。ただ、前回も手こずった男の子は、相変わらずで心が育っていない印象でした。お友達とおもちゃを取り合ったり、お祈りの時間になっても、遊び続けようとして泣き叫んだり・・・聞き分けがないというか、自分のしたいようにしかできなくて悲しい気持ちになりました。 


 その子を避けていたわけではないですが、他の子たちがどんどん遊びに誘ってくれるうちに時間が過ぎていきました。もうおしまいになるころ、ブロックを私が積んでいると、その子も積み始めました。不器用だと思っていたら、真剣にどんどん積み始めました。表情も生き生きとしていました。私は自分の分はやめて、その子を応援し始めました。背の高さを超えて、どんどん積んで2メートル近くまで積みました。最後、崩れてしまいましたが、誇らしげに、屈託のない笑顔を見せてくれました。 その時、2つのことに気づきました。一つは、モンテッソーリの教員資格を取って園長をしてきたことで、自分のアイデンティティが保育者になっていたことです。ただ遊ぶのではなく、何をしたら、その子が真剣に取り込んで、秩序感のある状態になるか考えていました。


 もう一つは、「その子に適した環境を整えるにはどうしたらいいか?」考え始めたことです。もちろん、その子との関わりは、ほんの数時間でしたし、これからも会えるかもわかりません。それでも、「チャンバラごっこから抜け出て何かを作る楽しさを見つけてくれないか?」「集中力を増す教具はないか?」と考えました。そして、山口から木製のパズルを送りました。


これまでは、「みんなのこと忘れてないよ」というメッセージを届けるためにボランティアに行ってました。それが、今回は「園児さんの育つ環境を整えたい」と思っていました。




「心に納める」とは


 話をマリア様に戻すと、「心に納める」とは、出来事に精一杯、継続的に関わることなんだと思います。

神様の計画全部がわからなくても、出来事を追い続ける。そのうちに、神様が次のステップを指し示してくださる。マリア様の生涯は、まさにその連続だったように感じます。


 私たちも、マリア様のように、わからないことの先に、次の展望を神様が見せてくれる、と信じましょう。そのような一年になることを願ってミサを続けましょう。


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