導入
教皇フランシスコは、自発教令の形式による使徒的書簡『アペルイット・イリス(Aperuit illis)』を、2019年9月30 日(聖ヒエロニモ司祭の記念日)に公布して、年間第3主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」(3)ことを宣言されました。教皇様の思いを留めてこのミサを始めましょう。
この箇所はイエスの就任説教と言われています。
イエス様は「貧しい人に福音を告げ知らせる」ことがご自分の使命だと言います。「福音」とは、神様の愛が無条件に与えられていることです。貧しい人とは、ユダヤ教の厳しい律法を守れないで神様の救いから外されてしまっている、と思っている人。今の時代なら、何かに囚われている人たちに自由が与えられることです。
「主の恵みの年を告げるため」。「恵みの年」とは、旧約聖書の伝統を重んじるユダヤ人は「ヨベルの年」を思い出します。レビ記25章に内容が書いてある。神様が世界を創造されたのは6日間でしたが、7日目は安息日(土曜日)に休まれます。シャバットという休みの日です。そこから発展して、7年に1年間は安息の年と決めていました。恐らくは、農作の連作を避けて休耕田にして土地を休ませるためと言われています。そこから派生して、外国の宣教師が祖国に帰ったり、大学の先生が研究のために休みを取ったりすることをサバティカル・イヤーと言うようになりました。実際に、ユダヤ人はこのサバティカル・イヤーの習慣があります。そして、7の7倍の49にプラス1年の50年を旧約聖書は「ヨベルの年」と定めています。50年も経つと貧富の差が激しくなるので、それをリセットする意味があります。たまった借金をチャラにする。売った土地が元の持ち主のところに返ってくる。奴隷だった人は解放されて自分の家族のところに自由人として戻ることができる。そのような年が「ヨベルの年」です。貧しい人たちが「主の恵みの年」と聞いたら「あの、ヨベルの年が実現する、と大喜びだったでしょう。だから、神様の無条件の愛を伝えることとぴったり重なる表現でした。
教皇フランシスコは、今日の年間第3主日を「神のことばの主日」と名付け、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」(3)こと宣言しています。宣言を理解するには「今日」という言葉を理解することが大切です。
この「今日」という言葉は、ルカ福音書のキーワードです。「今日」すぐに思い浮かぶのはルカ2章です。幼子イエスを見に行くよう招かれる人々に、天使が告げる。「今日あなた方のために救い主がお生まれになった。」4章では再び、イエスがナザレで宣教を始められる時、「この言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4:21)と語られる。3番目の箇所はルカ19章で、イエスが自らザアカイの客人となって、「ザアカイ、今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)と言われ、締めくくりに、「今日、救いがこの家を訪れた。」(ルカ19:9)と話されている。最後は、十字架上のイエスがこの言葉を語っている。イエスと共に十字架につけられた者の「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42)という願いに答えて、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)と言われる。
「今日」という言葉は、神様の恵みを受け入れること、回心する、生活を変化させることが、明日のことではなく、今日のこと、という意味します。
大きな誘惑は、何か良いことを提案しようとする時(もっとよく祈りたい、もっと勤勉でありたい、赦したいなど)、明日しようと考えることです。けれども、神様の恵みが今日のことです。今日、私たちは神の恵みを受け入れます。今日、私たちは赦します。今日、私たちは希望します。今日、私たちは変わります。今こそ、神様の恵みを受け入れる、救いの日です。
私たちが黙想する神のみ言葉は、一般的に語られたのではなく、今日のこととして語らています。神様は私たちに「わたしは今日、あなたと共にいる。」と言われます。
もっと自由な時をとか、もっと祈るゆとりがある時を、と期待すべきではありません。今がその時です。今が神の救いを受け取る時、今が和解の時です。
このミサを通して、今日信じて、今日悔い改めて、今日赦して、神様の福音を理解できるように願いましょう。
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