福音朗読:マタイ27:11〜54
行列
イエスは、立派な軍馬ではなく、子ろばに乗って謙遜につつましく入場されます。そして、胸の内では、受難と死を覚悟されています。
受難に向かわれるイエス様の胸中を想像しながら出迎えましょう。
第1朗読
第2イザヤは、バビロン捕囚によって故郷から移動させられて“疲れ切った人を助けることが自分の使命”と感じていました。けれども、長い預言者活動の間、辱めや暴力を受け続けました。励ましを与えているのに馬鹿にされる、そんな迫害を受け続けました。
でも第2イザヤは一歩も引きませんでした。その人間的には考えられない苦しみに耐えられたのは、神の言葉を身近に感じられていたからでした。神との親しさを毎朝確認できていたからでした。
あらゆる不条理を耐えられたのは、自分のしていることが“神のみ旨”だという確信からでした。
福音書は、この第2イザヤの態度から、受難を引き受けるイエスの姿を描いています。
第2朗読
第2朗読は、有名はキリスト讃歌です。
パウロは、キリストが称えられるのは、沢山の人を癒した英雄的な行為のためではなく、殴られて血を出して、唾を吐きかけられた人間として本当にみじめな体験を経たからだと言っています。十字架上の悲惨な状況を間近に見ていたら、誰もそんなことを考えつくこともできなかったでしょう。けれども、その悲惨さを通して神の救いの計画、神の栄光が示されました。
神の啓示の奥深さを理解できる信仰を願いましょう。
マタイ27:11〜54
聖週間をどう祈るか? 2つのポイントから話します。
1点目は、「十字架とは何か?」です。十字架はこの世の「悪」です。
十字架は、死刑の道具、重たい木材ではありません。この世のあらゆる「悪」をひっくるめたものです。 十字架は「悪全体」のシンボルです。個人の「悪」なら、妬み、失望、自己中心、弱い人への無関心などです。 社会的な「悪」は、テロ、戦争、搾取、差別などがあります。
イエス様は、あらゆる「悪」を背負って十字架にかかっています。「十字架の意味」を考えて過ごしましょう。
2点目。イエス様はご自分の権力を用いませんでした。
子供の頃好きだった「水戸黄門」なら、助さん格さんが闘ったでしょう。あるいは、十字架から降りて、「この紋所が目に入らぬか!」と副将軍の紋所を見せて、「ははあ」と膝まずかせたでしょう。権力で悪者をねじ伏せる、爽快感が好きでした。
でも、イエス様は権力を使いませんでした。弟子たちに闘わせることも、十字架から降りることもしませんでした。 何もしないイエス様に拍子抜けして、民衆は「十字架につけろ!」と残酷な言葉を投げつけました。
もし、水戸黄門のようにイエス様が権力を使ったら、驚きいって、「ははあ」と膝まずいたでしょう。でもそれは、力でやり返す方法です。人間の良心に訴えるのではなくて、力でねじ伏せるやり方。有無を言わせず、従わせるやり方。子供の頃の私は、このスカッとするやり方が好きでした。でも、今は、十字架から降りないイエス様を尊敬しています。イエス様は、わかりにくいなさり方で、神様の赦しと愛を見せてくださった。このわかりにくさに倣いたいと思っています。
聖週間、私たちの悪を背負ってくださるイエス様、権力を使わないで良心に訴えるイエス様を黙想しましょう。黙想が生き方に反映されて、復活の喜びに与れるように、神様の恵みを願いましょう。
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