枝の主日
- shibatakiyoshisj
- 4月15日
- 読了時間: 4分
エルサレム入城の時には歓喜の声で迎えたのに・・・
「十字架につけろ!」どうして? 心の中では
「自分の注文通りのことをしてくれない」
「癒やしのわざをしなくなった。」
「政治的メシアではなかった。」
柔和で謙遜、そんなものは欲しくない。 強くて支配するものが勝つ。弱い者は虐げられる。
受難朗読は心が傷みます。今日は2つお話をします。

1つ目の話。受難朗読をバッハの受難曲の創作部分、自由詩、その時代の説教から見直します。
心が傷むだけでなくて信仰表現があるので紹介します。(一部表現を変えています)
福音史家 総督は言った。
ピラト あの男は、一体どんな悪いことをしたのか?
レシタティーボ(ソプラノ I )
私のイエスは善い他には何もなさいませんでした。盲人に見る力を与え、足の不自由な人を歩かせ、私たちに父のみ言葉を語り、悪魔を追い出しました。
悲しみに崩れている人を励まし、罪人を迎え入れ友となりました。
「十字架にかけろ!」(応答になっています)
合唱 II その苦悶の原因は何なのですか?
テノール (裁き人がイエスを法廷に連れて行く。)慰めもなく助ける者もいない。
合唱 II ああ。私の罪があなたを打ったのです。
テノール イエスは地獄のたくさんの責め苦にあいました。
合唱 II ああ主イエスよ、私こそ (悔い改めなければなりません。) 私こそ、この咎め(十字架の苦しみ)を受け入れるべき罪人、しかしあなたは(罪を十字架を)それを背負ってくださる。
テノール ああ、私のつたない愛が、あなたの憂いと悩みと恐怖を和らげられるなら、苦しみを分かち合えるのなら、私は喜んでここにとどまりたい。
イエスの苦しみを共に担う私たちになっていく。十字架のイエスに温かく連帯する私たちになりましょう。

2つ目の話。「イエスよ、み国においでになるときに、イエスよ、私を思い出してください。」
回心した盗賊、悪の限りを尽くしても人生の最後まで回心の可能性がある。 イエス様は、盗賊を天の国に迎える。美しい話、
けれどもある聖書学者はこのように解説しています。
罪なきイエスが十字架上で全ての人の罪を背負う、これだけ大きな犠牲を払っても救ったのは、この盗賊一人ではないか? 弟子たちは逃げ去って、群衆はただ見ていただけではないか? どうして、たった一人の救いのためにイエスさまはむごい死を遂げたのか? 意外に思われるかもしれませんが、ルカ23章の回心して救われる強盗の話は、ルカ15章の3つのたとえ話、と関係があります。
たとえ話では、1匹の羊、1 枚の銀貨、1人の息子という具合に、どれも「1つ」が強調されています。
羊の場合は、100 頭のうちの「1頭」が大事、という常識はずれに不釣り合いです。ところが羊飼いにしろ、父親にしても、見つけ出して大喜びしています。 たとえ話は、神様がたった一人の人間、しかも一番小さな人間を大事にすることを示しています。 その姿は、イエスさまが十字架上で、 人々から見捨てられた強盗を救う神さまのイメージと重なります。たった一人でも、救いが必要な人のために、神さまはどんなことでもされる。どのような犠牲もいとわない。もったいないことではなく、一人の救いが神さまの喜びです。
神様のこのようななさり方は、平等を求める態度とは違います。全体的な結果より、一人の救いを優先させます。
私一人のために、十字架にかかって命を投げ出してくださったイエス様。
一人を優先させるイエス様をどう信仰生活に生かしたらいいでしょうか?
予定外の依頼が入っても・・・自分がやっと休める時間でも、相手に差し出すと救われる人がいるかもしれない。
「自分には大したことできない」ではなくて「自分にしかできないことがあるんじゃかい?」と問い直してみましょう。
そうしたら、十字架上で盗賊を救ったイエス様に倣うことができます。
受難、十字架上でのイエス様から、積極的な意味を見つける聖週間にしていきましょう。
C年 ルカによる福音 23:1〜49

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