聖金曜日
- shibatakiyoshisj
- 4月19日
- 読了時間: 3分
受難をどのように感じたでしょう?
むごい、かわいそう、怖い、残酷・・・
バッハの受難曲は2時間(ヨハネ受難曲)、3時間(マタイ受難曲)かけて受難を表現します。聖書にはない創作の言葉(バッハの歌詞作詞ピカンダーが神学者ミューラーの説教をモデルとして作成したもの)もあります。

マタイ受難曲から
「ピラトの尋問」第58曲
アリア(叙情的、旋律的な特徴の濃い独唱曲)
愛ゆえに 愛ゆえに 私の救い主は死のうとされます。
愛ゆえに 愛ゆえに 私の救い主は死のうとされているのです。
罪を知らない清い方でおられますのに。
永遠の滅びと審判の刑罰から私の魂を守るための身代わりに。
愛ゆえに 愛ゆえに 私の救い主は死のうとされます。
罪を知らない清い方でおられますのに。
イエスを「知らない」と三度、否んでしまったペトロは悔やみに悔やみます。
「ペテロの否み」 第47曲・48曲
アリア(叙情的、旋律的な特徴の濃い独唱曲)
憐れみたまえ、 憐れみたまえ 私の神よ。
したたり落ちる私の涙のゆえに!
ご覧ください。
心も目も あなたの御前で激しく泣いています。
憐れみたまえ! 憐れみたまえ!
憐れみたまえ 私の神よ。
したたり落ちる私の涙のゆえに!
憐れみたまえ 私の神よ。
したたり落ちる私の涙のゆえに!
コラール(讃美歌)
たとえあなたから離れても、きっとまた あなたのもとに立ち返ります。
御子が、ご自分の死の苦しみによって私たちをあがなってくださったのですから。
私は自分の咎を否みません。
けれども、あなたの恵みと愛は、私のうちに宿る罪よりもはるかに大きいのです。
受難曲には、十字架を止められなかった悔しさ、十字架を共に担いたい信仰、申し訳なさ、かたじけない、気持ちが表現されています。
受難曲は、楽譜を通して、音楽家が受難を表現します。 受難曲で感激をします。
日本では、信者さんの演奏者の割合は1割程と聴きました。

では、私たち信徒は受難をどう表現したらいいでしょうか? 「渡される」をキーワードに考えます。
イエス様は「十字架にその身を渡して」くださいました。抵抗するのではなく「渡してくださいました」
最後の晩餐では
「主イエスはすすんで受難に向かう前に、仰せになりました。
『皆、これを取って食べなさい。
これはあなた方に渡されるわたしのからだである。』」
ペトロは、申し訳なさ、かたじけなさ、ありがたさ、を込めて、最後の晩餐を思い出したでしょう。
私たちもペトロの思いを引き継ぎましょう。
「申し訳なさ、かたじけなさ、ありがたさ」を感じて「渡される体」「ご聖体」を受けましょう。
そして、イエス様が、「身を渡して」くださったように、私たちも「身を渡して」いきましょう。
受難曲で演奏者は楽譜を頼りに、演奏で受難を表現します。
信徒の私たちは、聖体を頼りに、生涯かけて受難を表現します。イエス様は、抵抗するのではなく、「私のように身を渡しなさい」と諭されます。
相手の状況に身を渡す、仕事、人間関係、病気、老い、苦しいときに「身を渡す」その姿が、受難を生きることになります。
「十字架に渡される体」そして「ご聖体で身を渡す」イエス様。 「身を渡す」私たちになれるよう、十字架を礼拝し、聖体を拝領しましょう。
ベトナムの青年たちも聖金曜日の典礼に与っているのでベトナム語でもニャー神父さんがお話しします。
ヨハネによる福音 18・1〜19、42
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