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復活節第3主日 エマオの弟子

イエス様は、どうしてエマオの弟子たちに現れたのか?それは、弟子たちを慰めるためでした。

イエス様は慰める時に「頑張れ。悲しいことばかり考えていてはいけない。」と言うだけではありません。実際に、希望を与えて新しい道を歩める期待を抱かせてくれます。


イエス様は2人の弟子を慰めるのに、4つのことをされます。 ①話を聞き ②ショックを与え ③神の計画を説明し ④最後にイエス自らが2人に奉仕しパンを割きます。



1つ目 聞くこと

イエス様は、弟子たちの話をひたすら聞きます。

何のことを話しているのですか。なぜ悲しんでいるのですか。どう思っているのですか。」と尋ねます。慰めの第一歩は、口を挟まずただ聞くこと、相手から話しを引き出すことです。非常に複雑な状況にいることを自分たちに表現させます。

2人はイエス様の生涯と死、そして婦人たちからのニュースも知っています。けれど、それらの持つ意味を理解できていません。口にしていることに確信が持てません。


2つ目 ショックを与える

「ああ物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちに言ったことすべてを信じられない者たち」(25節)


慰めるためにショックを与えるイエス様のなさり方は衝撃的です。常識では考えられません。普通私たちは、「その通りです。お気持ちはよく分りますから、あなたのためにお祈りします。」と言いがちです。

でも「あなたは全体が理解できていない。全体が分かれば見方が変わる」と言う方が簡単です。ショックを与えることは勇気のいることです。気がついてもなかなか言えません。イエス様はそこを大胆に切り込みました


3つ目 説明をする

ショックを与えた後、イエス様は神様の計画(聖書)を説明されます

2人が知っていることは、神の計画の部分的なものでしかなく、全体がわかっていないことを教えます。十字架上の死は、イエス様の失敗を表わすものではなく、神の計画に基づいていることを教えます。イエスが苦しみ、拒絶されて、一見失敗と思われることが実は神の計画、イエスの勝利でした


説明を受けた弟子たちの心に変化が生じます

「わたしたちの心は燃えていた」(33節)。

イエス様は知識を与えるだけでなく、2人の弟子の心を変えました。ショックを受けましたが、神の計画がわかり、心が燃えます。失望感から解放されてイエス様から命を受けて心が燃え始めます。抱えていた重荷が軽くなって前に進めるようになります。


4つ目 奉仕する(パンを割く)

ミサ司式の柴田神父。パンを顕示する

丁寧に神の計画(聖書)を説明した後、イエス様は2人に奉仕してパンを裂きます。その時、2人は、目の前の人が復活した主イエスだと悟ります。

イエス様は「私は復活した主である。私はあなた方の前にいる。」とは言われません。自分たちで理解させます。ショックを与え、説明し、最後にミサを行うにとどめています。

この慰めのプロセスはとても感動的です。



謙遜なイエス

復活されたイエス様は、謙遜な方法で現れます。弟子たちに厳しい言葉を言っていません。慎ましく優しく現れています。穏やかで柔和に、自分の栄光を喜んで欲しいと願っています。苦しみのことは考えていないかのようです

イエス様は復活された姿を現すのに脚光を浴びようとはしません。華々しい光を受けて姿を現そうとはされません。信じない人が愚かに思えるようには現れません。復活されたイエスは神の計画のしるしを与えますが、強引に人々を信じさせるようなことはされません。私たちなら、これみよがしに姿を現すかもしれません

復活のイエスは、信じる者にはしるしを示しますが、信じないではいられないようなされ方はされません。私たちの自由を尊重します。押しつけようとはされません。

神は信じないことなどあり得ないようなやり方で強要したりなさいません

神様は、人の尊厳が尊重され、自由と愛を育むプロセスを通して信仰にたどり着くように導かれます


イエス様は、信じられるように助けることにとどめます。



使命(ミッション)を与えるイエス

そして、イエス様は私たちにミッションを与えています。復活した主からミッションを与えられるということは、大きな慰めです。復活したイエスは「私はここにいる。私はよみがえった。喜びなさい。」と言うだけではありません。「全世界に行って宣教し、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(あなたの使命を果たしなさい。)」(マルコ16:15他)と言われます。


主聖堂 平和のあいさつをするイエス様像

この使命感が非常に大切です。私たちが成長するのは、知識を増やすからだけでなく、使命を与えられるからです。

私たちはいくつになっても、「神はどんな使命を今のわたしに与えておられるのだろう」と考えなくてはなりません。

私たちが元気に働ける時には、使命感を持つのは比較的簡単です。けれども、弱くなった時、病気や年をとった時には難しくなってきます。しかし、聖霊の恵みによって使命感が与えられます。元気な時に、神のため、教会のため、人々のために人生を捧げていたのと同じように、自分の人生を捧げることができます


イエスは、「人生のどんな時にも、あなたには、果たすべき使命がある。あなたの働きは、私にとって重要です。あなたは大切なことを成し遂げなくてはならない。私にはあなたが大切である。」と言って私たちを慰めてくれます。


私たちは、イエスからの使命感を持てるように、無力感にとらわれないように、熱心に祈らなくてはなりません。自分はもはや役に立たないという思いは、とても大きな誘惑です


イエス様は、弟子たちに現れて、しっかりとした使命感を持たせます。私たちも、どんな状況でも使命が与えられて、それを果たすことで慰められます。使命を果たすことで慰められる。そんな私たちでいられるようにミサで祈りましょう。

 

参考資料「イエズス会黙想会 --- マルティーニ枢機卿指導 」(2000年発行 訳:松本紘一)


夕方の主聖堂と鐘楼


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