ルカによる福音 3:1〜6
今日は2つのお話をします。待降節に朗読される福音には洗礼者ヨハネが登場します。
1つ目は洗礼者ヨハネについて考えます。
洗礼者ヨハネは、祭司ザカリアの子です。祭司の務めは、いけにえの儀式を神殿で司ることです。旧約の時代は、いけにえをささげる神殿中心主義でした。祭司の息子だから、普通なら世襲でヨハネも祭司になったはずでした。でも、ヨハネはこのしきたりに悩みました。神殿で祭儀を行っても、形式的だと気づいたからです。
ヨハネが選んだのはエルサレム神殿とは正反対のユダの荒野でした。ユダヤ教ではリムレという神殿参りの直前に身を清める儀式がありました。ヨハネはそれを荒野に持ってゆき、身を清める儀式をヨルダン川に持っていきました。神殿でささげ物を買うのに、子羊一匹でも大した額になります。だから、多くの人は神殿に行けませんでした。でもヨルダン川でのヨハネの洗礼にはお金はかかりません。貧しいけれども真剣に信仰を生きたい人たちが集まって行列になりました。
その洗礼者ヨハネは、「主の道を整えその道筋を真っ直ぐにせよ」と呼びかけました。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉は、イザヤ書40:3節から取られています。
紀元前6世紀、バビロンで捕囚されていたイスラエルの民は、エルサレムへと還させる時に、神様が特別な近道を通されました。普通はユーフラテス川沿いに北上するルートを使うのですが、神様は、民を慰めるために、荒野に広い道を通して、まっすぐ西に進ませる道を作って、早く帰国させました。
福音では、同じ「主の道を整える」という言葉が使われていますが、意味合いが違ってきます。
バビロンからエルサレムと言う場所から場所へと移動する「道」のことではなく、信仰の「道」になります。「信仰の道」がでこぼこになっているからそれを「整えなさい」と言っています。
では「でこぼこの道を整える」とはどういうことでしょう?
先日、小学1年生の子の洗礼式がありました。その時に「でこぼこの道を整える」意味を感じたのでご紹介します。
信仰は自分で考えたものではなくて教会の伝統を受け継ぐもの。小学1年生の子は教会の信仰の伝統に招き入れられました。教会の信仰の伝統に招き入れられると同時に、信仰は神様との個人的なものパーソナルな関わりでもあります。
洗礼を受けた子は、マザーテレサに憧れていました。
「私をお使いください」という詩を紹介します。
主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日、私のこの手をお使い下さい。主よ、今日一日、友を欲しがる人々を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日、私のこの足をお貸しいたします。主よ、今日一日、優しい言葉に飢えている人々と語り合うため、私の声をお望みでしたら、今日、私のこの声をお使い下さい。主よ、今日一日、人は人であるという理由だけで、どんな人でも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日、私の心をお貸しいたします。
「神様、どうか私を使ってください」という純粋な気持ち洗礼を受けました。
義務ではなくて自由な神様との受け応えを感じた洗礼式でした。
「私をお使いください」の心は「でこぼこの道を整える」1つの方法だと思います。
先週、教会では日本赤十字による献血が行われました。
輸血が一番必要とされるケースは、病気が83%。その中でも白血病などの「がん」が上位を占め、毎日、輸血を必要とする患者もおられます。先週の献血は目標の50人を大きく超える72人がご協力くださいました。献血されたお気持ちをご紹介します。
「昨年、母が大きな手術をした時に輸血を受けました。(恩返しに)私も献血したいと思っていたのですがなかなか機会がなく、今回このような形で献血ができてうれしく思っています」
「15年前に、子宮筋腫を取りました。今まで、貧血で何度も献血を断られてきたのですが、今回、お医者様に『多分、筋腫を取ったから大丈夫よ』と診断を受け、その通りでした。若い時よりヘモグロビンが増えていて自信がつきました」
学生時代から数十年ぶりに献血をしたという信徒は何人もおられましたが「教会での呼びかけがなかったら、献血をすることもなかった。人の役に立つ機会を与えてもらって感謝」
私を「お使いください」の心が実現されました。
小学1年生の子がマザーテレサに憧れた姿、「私をお使いください」の心は、「でこぼこの道を整える」1つの例だと思います。
自由な心で神様の呼びかけに応える姿は輝いていました。
私たちも洗礼の恵みを捉え直して、輝けるよう願って待降節を過ごしましょう。
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