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年間第6主日 桜井哲夫さん

マルコによる福音 1:40~45

 

今日は「世界病者の日」です。12月19日に入院された桜井神父さんのお見舞いに週に4回、伺っています。歩行訓練、飲み込むリハビリを熱心にされています。「杖を使って歩くのはだいぶ先になりそう」と言われますが、回復を願いながらお見舞いに通っています。


「重い皮膚病」と訳されている言葉は、少し前の日本では、らい病、今で言うハンセン病の人たちと言われています。この病気にかかった方たちは、家族からの面会も許されなくなり、社会から切り離されてしまいます。イエスさまの時代も、ほんの少し前の日本の状態も同じでした。


今日は、元ハンセン病患者の詩人桜井哲夫さん(この名前も無理やり改名させられたもので本名は長峰利造さん)の人生(1924年7月10日〜2011年12月28日 享年87歳)を少し長くなりますがご紹介します。桜井さんは2007年に、私が中間期をしていた六甲学院の生徒さんに講話もしてくださいました。


桜井さんは17歳まで、裕福なリンゴ農園で育ち、豊かで幸福に恵まれた少年時代を過ごされました。

毎日が楽しくて、欲しいものは自分の思い通りに手に入る。明日も明後日もずっとそんな日が続くと信じて疑いませんでした。そして当たり前にようにやってきたある日、片腕が曲がらないことに気づき、それが「不治の病」であると宣告されます。17歳で、たった一人故郷の津軽を離れ、群馬県草津にある療養所 国立療養所 栗生楽泉園(くりう らくせんえん)に入ることになります。

家族とのお別れの詩です。


しがまっこ(津軽弁で氷)溶けぬ ──(らい予防法廃止) 津軽の分教場(小規模の学校のような施設)の傍らを流れる小川に 厚い 厚い しがまっこが張った 分教場の子供たちはしがまっこ(津軽弁で氷)の上に乗って遊んだ 雪の降る朝 お袋が言った 「来年の春 しがまっこが溶ける頃には 病気がよくなって帰ってこれるから」と (ハンセン病)療養所の寮舎の軒に 冬になると長い 長い しがまっこが下がった しがまっこは 春になると音もなく溶けた しがまっこが溶けても帰れなかった (中略) お袋が五十年前の雪の日に言った言葉が胸奥で疼く しがまっこは まだ溶けない  ―(第4詩集『タイの蝶々』より)

拭く (30歳手前で失明) 1941年 昭和16年10月6日 旅立ちの朝 住み慣れた曲屋の門口まで送りに出た父が突然 「利造 勘弁してくれ。家のために辛抱してけろ」 と言って固く俺の手を握った 見上げた父の顔にひとすじ ふたすじの涙が走った 後ろを振り向くと おふくろはうつむいて 涙で曇ったのか しきりと眼鏡を拭いていた (中略) 列車は駅を離れた おふくろの姿は たちまちホームの人混みの中に消えた 列車の窓を二度三度と拭いた 見えるはずの岩木山や赤く色づいたりんごは見えなかった 2001年 平成十三年六月十二日 (中略) それは5月11日の熊本裁判の判決に沿う和解であった 裁判所を後に夜遅く帰園した 故郷を離れて六十年 今は亡き両親の涙を 俺は指のない手で静かに拭いている 列車の窓から見えなかった 岩木山もりんご園の赤いりんごも 今日は盲目の俺の目によく見えたよ と もう一度両親の涙を拭いた  ー(第五詩集『鵲の家』より)

療養所に入った頃の桜井さんは毎日空を見上げては、ちぎれ雲の行方を見つめていたと言います。50数年にわたる、園での辛い生活は想像を絶するものでした。


30歳の時、哲ちゃん(桜井さん)は、聖書やキリスト教に関する書物を読み始めました。その中で、国際らい学会事務局長のスタンレー・G・ブラウン博士が書いた『聖書の中の「らい」』という本に出会い人生の大きな転換を迎えます。そこにはこう書かれていました。「私自身はらいではないので、限界があります。いつの日か、らい者自身(ハンセン病患者)が、その身をもって聖書の中のらいを証してくれることを願います。」というような内容でした。哲ちゃんはそれを読んで、「それならば自分がその証をしよう」と決心しました。そして、栗生楽泉園(くりう らくせんえん)の中にあるカトリック教会で、洗礼を受けます。


哲ちゃんは語っています。「一番大きな出会いは、神との出会いだったね。あの時、何もかもなくして、全然生きる希望を持てなかった。この世に神さまなんているもんか。もし神さまが本当にいるとしたら、なんで俺ばっかりこんな苦しめるんだって。毎日そればかり考えてたのね。来る日も来る日も考えていたら、ふと、俺、こんな状況に置かれなかったら、きっと神様のことなんかこれっぽっちも考えられなかったろうな。もしかしたら神さまが、俺をこの病気にすることによって、その存在を知らしめようとしたんじゃないのかなあって思えてきたの。」


寮に入ってから50年後、念願のお墓参りが叶います。 

哲ちゃん両親のお墓は、そのリンゴ園の中にありました。ご両親が葬られているお墓の前に立つと、哲ちゃんはしばらくの間、ただ黙っていましたが、そのうちに静かに手を合わせました。哲ちゃんは、今、どんな気持ちでここに立っているんだろう。ご両親に何を報告しているんだろう。手を合わせる哲ちゃんを見ていると、いつしか私の目にも涙があふれてきました。哲ちゃんは指のない手で、古い墓石をさすり、私に言いました。

「このお墓はね、両親が俺のために買ってくれたお墓なの。17歳で療養所に入る時、何もしてあげられないから、せめて立派な墓でもといって、これを買ってくれたらしいんだよね。両親も、俺がこんなに長生きするとは思ってなかったんだろうなあ」。


77歳の時、60年ぶりに実家に戻りました。

「お父、お母、兄、キサ、いま利造が帰ってきたよ。60年前に旅立って、ようやくあなたたちの前に座らせていただきます。長い間、失礼しちゃって堪忍してください。皆さんのおかげで、今日、ここにお参りさせていただきました。本当に堪忍してちょうだいね、一度もお参りできなかったんだけど。きねや誠や衛がこうしてお参りさせてくれました。ありがとうございます。


後日、哲ちゃんに、「あの時なんで堪忍してちょうだいって言ったの?」と聞いたことがあります。 哲ちゃんは「確かに、堪忍してっていうのは、本来なら両親が言う言葉なんだろうね。でもね、両親の葬式に出られなかったことは事実だし、理由は何であれ、墓参りできなかったことも事実だから、やっぱり堪忍して、なの。本当、俺が言うのも変だね。でも自然と出てきちゃったから。」と言ってました。

「ねえ、哲ちゃん。いつか言っていた“らいになってよかった”って、やっぱり今でもそう思う?」。 哲ちゃんの顔は、ぱあっと花が咲いたように明るくなり、「よかった〜。こんな素敵な出会いがいっぱいあるんだもの〜。苦しかったけど、らいじゃなかったら、やっぱり出会えなかったでしょう。今ままでのらいの人生を、言葉になんかできないの。でも、ひと言でまとめてみなさいって言われたら、やっぱり“よかった”って言葉しか見つからないの」ってふふふと笑いながら。


イエス様は、桜井さんをはじめとするハンセン病の人の苦しみに深く同情して、あわれみの心を持って触れて癒しました。 桜井さんも、神様に出会って人生が変わりました。六甲学院の生徒さんたちに「信仰と出会わなければ、世の中を恨んで絶望して自殺していたでしょう」と漏らしていました。顔は病気で崩れていましたが明るい表情で学生さんたちに、生きる素晴らしさと、勉強の大切さを教えてくれました。  

病気、差別に苦しむ方にイエス様のわざが働きます。

私たちも、イエスさまのように、苦しむ方に寄り添っていきましょう。



 
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