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年間第13主日 自分の命を得ようとする者

福音朗読:マタイによる福音10:37〜42

 

今日は2つの聖書の箇所から考えました。


自分の命を得ようとする者とは?

1つ目は、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「自分の命を得ようとする者とは?」とはどのような人でしょうか?


私の自身の体験です。12年間住宅会社に勤めていた私の楽しみは車でした。12年間で6台乗り換えました。新入社員の時は、車を持てるだけでうれしかったですが、段々贅沢になり3台目から外車になりました。高速道路では抜かされるのが大嫌いで飛ばしていました。だから、会社を辞めて車を手放すときには涙が出ました。イエズス会に入った後も、夢の中に車が出てきました。愛車を見つけて「あった、あった」と喜びましたが、いざ自分の車に乗ろうとしたら「鍵がない」。ポケットもカバンの中もどこを探しても見つからない。あきらめてとぼとぼ歩きだす夢を何回か見ました。修道生活に入った後も、しばらくは車への未練や執着があって夢の中に出ていました。

私は「自分の命を得ようとする者」の代表でしょう。社会で成功すること、豊かになること、を目標見生きていました。


そんな私ですが、「わたしのために命を失う者(神様に自分の命を捧げる者)」にもなる兆しもありました。大好きな車を運転しながらロザリオの祈りやアシジのフランシスコの平和を求める祈りを唱えていました。長距離ドライブでは、何環もロザリオを唱えたものです。忙しかったサラリーマン時代の私にとって車の中は、祈りの空間にもなりました。


「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。」

この箇所は、平和を求める祈りの最後の部分、「自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから」の箇所と重なります。愛車を運転しながら、今日の福音箇所を祈っていたことになります。それは、とても不思議なめぐり合わせ、神様の計らいでしょう。繰り返す祈りが心の中に浸透して、神様の計画が働きだして、今を迎えているように感じます。



この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人

2つ目は「この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」から考えました。


皆さんはすでにご存知かもしれませんが、難民の支援にカブトムシを育てています。四ッ谷の地下で育てていたカブトムシ200匹が成虫になっています。カブトムシを育て始めたのは東日本大震災があった2011年から。地震と津波があった東北のお友達を助けるために始めました。それから13世代目、今は難民のお友だちのために育てています。 オスとメスをつがいにして、教会の子供たちに分けています。いただいた募金を日本に来られた難民のために使っています。



今日から、難民支援のカブトムシの受け渡しが始まっています。

お譲りしているカブトムシは私が育てたカブトムシばかりではありません。土曜学校、日曜学校の子供達、教会の方が1年かけて育てたカブトムシも含まれています。

小学1年生の女の子は「私のをどうぞ!」と言ってくれました。女の子が育てたカブトムシは、去年、神父さんが分けたカブトムシです。大事に大事に育てました。いざ「どのカブトムシをあげようか?」選んでいるときに涙が出てきました。どのカブトムシも一年かけて大事に育ててきました。だから、やっぱりいなくなると寂しい。「お友達に喜んでもらいたい、でもやっぱり寂しい。」喜びと寂しさが、入り混じっていました。


「この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」

女の子、私のところにカブトムシを届けてくれた方に、神様が報いを与えてくださるでしょう。

「カブトムシを育てて、難民のお友達を助ける」 挑戦したい方はお声をかけてください。




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