福音朗読:マルコによる福音14:12〜16、22〜26
血と契約の背景の説明
第1朗読で、シナイ契約では、祭壇と人々に動物の血が振り掛けられました。
聖書の世界では「血は生命の担い手」とされています。(レビ17:11)。人間にしろ、動物にしろ血は創造主の神の支配下に置かれています。人の血を流す者は、神の報復を招く重大な罪(創世記5:9、マタイ23:35)でした。しかし、動物の血は、人間の罪の贖いのいけにえとして流されていました。
出エジプトの出来事で神に感謝を捧げるはずのイスラエルの民は、神から離れ金の牛の像を拝んだり、神さまからの契約を破ってしまいます。神様は、かたくなな民を嘆きながらも「預言者を通して“新しい契約”を結ぶ」と約束します。
「主は言われる。『私がイスラエルの家と新しい契約を立てる日が来る』」(エレミヤ31:31)
イエスは最後の晩餐の時、ご自身の「血によって」「新しい契約」(ルカ22:20)が結ばれることを宣言します。
新しい契約を立てる日が来たのは、まさにイエス様が最後の晩餐をした時です。
最後の晩餐でイエス様はパンを裂きます。その数時間後に、十字架上でイエス様の身も心も裂かれ血が流れます。この血が、全ての人の罪を贖う血になります。
イエス様の血は「ただ一度だけ」流されて、すべての罪を赦す完全な贖いでした。毎年流される動物の血は不完全な贖いでしたが、イエス様から流される血によって完全な贖いが実現します。
説教
今日は、キリストの聖体を記念しています。聖体の由来と意味を学びましょう。
イエス様が聖体の秘跡を制定されたのは、最後の晩餐の席です。この晩餐は、ルカ福音書では「苦しみを受ける前に、あなた方と共にこの過越しの食事をしたいと、わたしは切に望んでいた。」(ルカ22:15)というイエスの言葉で始まっています。イエス様は、公生活の間、たくさんの人々と食事をしましたが、そのほとんどがお客様の立場で、最後の晩餐だけイエスは自分で主催して、弟子たちをもてなしました。
「苦しみを受ける前に」の言葉で分かるように、イエスは自分の受難と死を覚悟しています。ユダの裏切りも知っていて「決死の覚悟」で食事をもてなします。その「決死の覚悟」で、自分のいのちをパンとぶどう酒の形で、愛の業にしたのが聖体です。ですから、数時間後の受難と死があって、聖体には意味があります。切羽詰まったギリギリのところで愛の結晶、ご聖体が生まれました。だから、ご聖体をイエスの「愛の形見」と呼んでいますし、それだけ愛が詰まっています。カトリック教会は、イエスの遺言を2000年間守って「愛の形見」を人々に分け与えてきました。
12月に入院された桜井神父様は、2ヶ月前からものが食べられるようになり、月曜日に病院にご聖体をお持ちしています。桜井神父様は「ご聖体をいただけて、イエス様と繋がっていることがわかってとても励ましになりました」と感謝されていました。「愛の形見」をいただいて力をもらっていました。
さて、この「愛の形見」は、わたしたちキリスト者だけのものでしょうか? いま苦しんでいる人に意味があるのでしょうか? モノのあふれた社会の中で、必死に働いている人たちは「愛の形見」とどうつながるのでしょうか?
ドロテー・ゼレという女性の神学者はこう言います。
「人はパンのみによって生きるのではない。それどころか、人はパン(生活の資を稼ぐこと)のみに生きることによって死んでいる」 『内面への旅』新教出版社、P11
厳しい競争を生きるためにみんな必死で闘っています。でも、人生何のために生きているのかわからなくなる人もいます。サラリーマンの時の私もそうでしたが、ひた走っているのにどこにたどり着くのかわからなくなっていました。モノは豊かでも、心の中は渇いていました。わたしたちは、生きる目的を見失った人たちにも、イエス様のいのちを伝える使命があります。
ご聖体は「ホスチア」とも言いますが、ラテン語で「いけにえ」と言う意味です。旧約の時代、動物や動物の血を「いけにえ」として神に捧げていました。イエス様は動物の代わりに人類の罪を贖う「いけにえ」となって下さいました。自分のいのちを、人類を救うために捧げました。私たちも、世の中の救う「いけにえ」になりましょう。ミサが終わると、社会や家庭に戻っていきます。それはイエスのいのちを人々に伝えるためです。価値観が違う家庭・職場で福音を伝えることは大変ですが、それこそイエス様が「いけにえ」となられたように、わたしたちも相手に自分を捧げましょう。
「愛の形見」をありがとうの気持ちで拝領して、イエス様の愛を伝えていきましょう。
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