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年間第12主日 人々を恐れてはならない 

福音朗読:マタイによる福音10:26〜33

 

福音書が書かれた背景をまず考えます。

敵対する人たちの前で、自分の信仰を表明すると、捕まってしまう、仕事がなくなる、自由がなくなる、下手をしたら命も失いことを意味しました。


「人々を恐れてはならない」


今の日本で考えると、捕まってしまう、仕事がなくなる、自由がなくなる、命も失うことまではないでしょう。では、どのような「恐れ」があるでしょうか?私の召し出しから考えてみました。


柴田神父さんの召し出し

2023年6月25日 堅信式リハーサル。柴田神父さんが受堅者に説明中。

12年働いた会社を辞めて、司祭を目指す、イエズス会に入る。そう公表してからの同僚の反応です。

「どうやって生活するの?」「途中で辞める人はいないの?」「どうやって生活するの?」と聞かれたら、修道会が生活費は面倒見てくれる。勉強するためのお金もイエズス会が払ってくれるから大丈夫、と聞いてる、と答えました。

お金のことは心配しなくていいんだ、とこのことは安心していました。

「途中で辞める人はいないの?」この質問には、はっきり答えられません。自分もそうかもしれない、不安があります。自分の不安をよそに同僚は「辞めたらまた一緒に働こう」と言ってくれました。 お客様からは「尊いお仕事するんですね。」と言われました。でも「自分にはそんな尊いことが務まるだろうか?」と不安になりました。


当時、いろいろな思いがありましたが、一言で表現すると「挑みすぎじゃないか?」でした。

「司祭叙階までに10年もかかる」「もっと手近なことを目指した方がいいんじゃないか?」「挑みすぎじゃないか?」の思いを召し出し担当の神学生に打ち明けました。

すると「不安があるのはわかります。柴田さんの思いはそうとして、神様はどちらを望んでおられるのか?考えましょう。「光」が見える方を選んだ方がいい。困難があっても、先が長いと感じても「光」を目指した方が充実した人生を送れますよ。」


自分にとっての「光」

自分にとって「光」はどこにあるだろう?イエズス会に志願する時に、管区長に当てた手紙を読み返しました。その中にはこうありました。

これまで2つの祈りを大切に唱えてきました。1つは、イグナチオ教会の大学生を対象とした木曜会(1985〜87年:指導司祭は、桜井神父・松本神父)で唱えた、アシジのフランシスコの平和を唱える祈り。もう一つは、南山教会のレジオ・マリエで唱えたマリアの祈り(私は主のはしため、お言葉通りになりますように)。今思うと、2つの祈りが私の人生の中に静かにゆっくりと実現されて来たように思います。


2つの祈りが人生の中に、静かにゆっくり実現されてきた。だから、この路線で歩めばいい。

「光」が見える方に進む、と言うのは2つの祈りから導かれた方向と一致していることに気が付きました。ノルマ、ノルマで働き続けた毎日から、人のため、神様のためにエネルギーを注ぐ毎日へ変えたい、と思ったことと一致していました。

確かに、10年は長かった。「挑みすぎなんじゃないか」と言う思いは繰り返して湧きました。そんな時また、志願書に書いて内容を思い出しました。「光」の方に進んでいる、と思うようにしました。


2023年6月25日 堅信式の柴田神父。

叙階して13年経ちました。こちらの方が時間が経つのは早いように感じます。今でも「無理なんじゃないか?」とたじろぐことがあります。でも、以前のように「挑みすぎなんじゃないか?」という恐れよりも「やれるだけのことはしよう」と割り切れるようになっています。


皆さんの信仰生活の中で「挑みすぎなんじゃないか?」と恐れたり「そんな大それたことよりもっと手近なことをしたらいいんじゃないか?」迷ったり、「無理なんじゃないか?」とたじろぐことがあるかもしれません。そんな時、大切している祈りに戻って、「光」を探してこられたと思います。


「人々を恐れてはならない」

イエス様の言葉をそれぞれが受け止めて信仰を生き抜きましょう。


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