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三位一体の主日 献堂記念の意向

福音朗読:ヨハネによる福音3:16〜18

 

今日は2つのお話をします。まず、三位一体についてです。


三位一体

実は、三位一体について聖書の中には曖昧にしか書かれていません。だから、教会ができた時に初めからあったものではありません。キリスト教がユダヤ教から離れて、ユダヤ教の神とキリスト教の神の違いをどのように説明するか試行錯誤の中から生まれました。

さまざまな考えの中から、これが正しい、正統な信仰と認められたものが4世紀になってやっと確定しました。私たちが、大きな祝の日に唱えているニケア・コンスタンティノープル信条(381年)に三位一体の神が謳われています。


この信条が作られる前には、ユダヤ教の神、父なる神を絶対視して、子なる神・イエスや聖霊を格下、父なる神よりも劣ったものように考える人たちがいました。これに対して教会は、父と子と聖霊が、同じ本質から来ていて同等なものであることを決定して宣言しました。父と子と聖霊は、1つの神様ですが、現われ方や働き方がそれぞれ異なるという説明をしました。


岩島神父様は、三位一体についてこのように説明されます。

父なる神を「隠れたる神」、子なる神イエスを「見える神」、聖霊を「生かす神」

と表現しています。


「隠れたる神」は天地を造られた創造主です。権威があって万物を支配する方ですが、直接見たら人間は死んでしまうと恐れられてもいました。子なる神イエスは、これまで見ることができなかった神様の偉大さ・憐れみ深さがイエスによって目で見えるようになったことです。そのイエス様は、御父から送られる聖霊によって人々を助けていました。

「生かす神」はイエス様が昇天した後に、弟子たちに注がれた聖霊の働きです。イエス様は、ご自分と同じ使命を果たせるように“聖霊”を弟子たちに派遣されました。「生かす神」聖霊は、わたしたちにも働いています。私たちを通して神の国は実現します。ここまでが三位一体の説明です。


献堂記念

初夏の夕方、会衆席にステンドグラスの光が落ちる 聖イグナチオ教会

ここからは献堂記念についてです。ミサの始めに動画が上映されました。


私が初めてイグナチオ教会にきた時、旧教会の掲示板には

「重荷を負う者は誰でも私のもとにきなさい。休ませてあげよう。」

の聖句が掲示されていました。それは大学生の時で、私は体育会のソフトテニス部を辞めた時でした。上下関係の厳しい、理不尽なこともある合宿所で生活していました。私は一般で入部しましたが、部員の多くは国体・インターハイで上位の成績をおさめて体育推薦で入部していました。きつい練習、コート整備、食事当番、急な使いっ走り、試験勉強もろくにできないなど、行き詰まった下級生が集団で脱走しました。私も脱走計画に加わってしまいましたが、体育推薦でなかったので部に戻るチャンスを掴めませんでした。

「まさか、こんなことに? これからどのように生きたらいいのか?」路頭に迷っていた時に知人の勧めでイグナチオ教会に来ました。

今日のように朝7時のミサに与り、終わった後も、思い詰めた表情で席に座っていました。坊主頭でガリガリ・・・きっと訳ありの青年、ひょっとしたら刑務所から出てきた?と周りからは見えたでしょう。すると、後ろに座っていたご婦人から「あなたの願い事が叶うといいわね」と声をかけられました。「わたしの願い事ってなんだろ?」 探すために大学生のための木曜講座に通うようになり、1年経って洗礼を受けました。


私にとっての、イグナチオ教会の1番の思い出は、あの日ご婦人が「あなたの願い事が叶うといいわね」と声をかけられたことです。この言葉がなかったら、私は洗礼を受けていなかったでしょうし、まして司祭にもなっていなかった。ご婦人の一言が、私の人生を変えました。イグナチオ教会にはそのような祈る人が引き起こす奇跡が潜んでいるように思います。


先週の10時のミサでレンゾ管区長が「召し出しのために祈ってください」と挨拶されていました。まさにそうだと思います。洗礼を受ける、司祭を目指す・・・どこかで種が撒かれないと実現しません。 

イエス様は「重荷を負う者は誰でも私のもとにきなさい。休ませてあげよう。」と言われます。

教会に来た方に「あなたの願い事が叶うといいわね」と声をかける。「わたしの願い事って何?」と神様に聞く。このようなやりとりがイグナチオ教会を発展させます。

献堂25周年に向けて、また一歩前進できるように願いましょう。


献堂24周年のお祝いにミサの前に献堂24周年記念の動画が流されました


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