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一粒の麦が地に落ちて死ねば豊かに実を結ぶ 四旬節第5主日

「一粒の麦が地に落ちて死ねば豊かに実を結ぶ」

このみ言葉が、私たちの信仰生活に実現するよう願ってミサを始めましょう。


 

福音朗読:ヨハネによる福音12:20~33


私は2000年3月18日にイエズス会に入会しました。反対する家族に、後ろ髪を引かれる思いでしたが、入会直後は、自分が歩み始めた新しい人生に希望を持っていました。そして、『管区ニュース』に自己紹介の記事を依頼されたとき「一粒の麦が死ねば豊かに実を結ぶ」の言葉をモチーフに「サラリーマンの自分に死んで、新しい自分、イエズス会員としての自分に生きたい」と書かせてもらいました。だから、今日の福音箇所には特別な思い入れがあります。こ言葉を胸に、修道生活を歩んでいきたいとスタートした思い出があります。


ところがしばらくして、ある神父さんから「イエズス会員の中でも死に損ないが多い。一粒の麦を大事に取っている人がいる。」と聞かされました。どんなことかと考えました。修道者になるために、家族・財産など見た目大きなものは捨てても、プライドや、名誉欲に縛られてしまう。入会当時の志を保つことは難しい、ということなのだと思います。それは確かにその通りです。


聖イグナチオ教会主聖堂ステンドグラス「麦」

「一粒の麦が死ねば豊かに実を結ぶ」その模範はイエス様です。

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(ルカ23:37他)

十字架上のイエスはとても辛い孤独です。イエスが、みんなから捨てられます。イエスを理解できたはずの弟子たちは、逃げ去ってしまいました。 兵士たちはむち打ち、人々はあざ笑っています。隣の十字架からもイエスを非難します。神の子イエスは、誰からも理解されず、軽蔑される憂き目で死を迎えます。

人々は「自分自身を救えないなら、イエスを信じられない」と言います。イエスは、味方のいない十字架上で、持っている権力を自分のために使うように要求されます。しかし、イエスはこの権力を使おうとしません。もし使ったら“権力の神”を証してしまいます。


イエスは、十字架から降りない方を選びました。一人だけで、見捨てられて、誰にも守られずに死なれるのです。しかし、そうすることで“福音の神”を証します。

外から見たら、十字架は完全な敗北。その孤独の中で「父よ、私の霊をみ手に委ねます」と言われます。こうして、イエスは“福音の神”“全てを父なる神に委ねる姿”を証されました。


十字架上でのイエスのことばは「私はどんな神を信じているか?」という問いを与えます。

「何かの願いを叶えてくれる神なら信じるのか?」「全てを委ねたら永遠の命を与える神を信じるのか?」 

イエス様は「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたい者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23〜24)と言っておられます。「一粒の麦が死ねば豊かに実を結ぶ」の箇所と通じます。


その反対、死に損ないの状態は、神様のみ手に自分を委ねることを失っています。自分の思い通りに人生になりますように、と願い続ける態度です。


四旬節も後半です。十字架上で神様に全てを委ねたイエス様の姿を思い浮かべましょう。「一粒の麦が死ねば豊かに実を結ぶ」私たちの人生でも実現しますように。



来週はいよいよ受難の主日です


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