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受難の主日(枝の主日)


 

行列

これから、主のエルサレム入城に記念を行います。イエス様は、立派な軍馬ではなく、子ろばに乗って謙遜につつましく入場されます。胸の内では、受難と死を覚悟されています。受難に向かわれるイエス様を民衆の一人として出迎えましょう。


イグナチオ教会では5年ぶりに外でエルサレム入城の記念を行いました
イグナチオ教会では5年ぶりに主聖堂前でエルサレム入城の記念を行いました


第1朗読

第1朗読では、有名な“苦しむ僕の歌”が朗読されました。第2イザヤは、バビロン捕囚によって故郷から移動させられて “疲れ切った人 を助けることが自分の使命”と感じていました。けれども、理解されず、辱めや暴力を受け続けます。 励ましを与えているのに馬鹿にされる、そんな迫害が続きました。でもイザヤは一歩も引きませんでした。“神のみ旨”だ確信していたからです。

不条理を耐えるイザヤ、いざやの神への信頼を想像しましょう。


第2朗読

第2朗読は、有名はキリスト讃歌です。キリストが称えられるのは、沢山の人を癒したためではなく、殴られて血を出して、みじめな体験をしたからだと言っています。十字架上の悲惨な状況で誰もそんなことを考えつきませんでした。けれども、その悲惨さを通して神の救いが示されました。


福音朗読(マルコによる福音15:1〜39)

1点目

群衆は「十字架につけろ」と叫びます。心が痛みます。少し前まで歓呼の声でイエス様を迎えたのに・・・群衆はイエス様にローマからの政治的な解放者を期待していました。それが叶えられないと手のひらを返したように、イエス様を殺すことを要求してしまいます。 私たちは群衆になると真理を失う。歴史の中でも様々な出来事がまだ起きています。

一方でマタイ受難曲では、ユダに向かってですが、このような言葉があります。。




第2部 第42曲 1:55:40~(3分16秒) アリア バス


われに返せ わがイエスを! (見よ、人殺しの報酬として受けた金を 迷い出た放蕩息子で あなた方の足元に投げ出したのではないか! 見よ、人殺しの報酬として受けた金を。迷い出た放蕩息子で あなた方の足元に投げ出したのではないか!)   われに返せ わがイエスを! われに返せ わがイエスを!  リヒター 1971年 3時間16分 (ドイツ語と日本語訳 対訳) 

イエス様を返して欲しい、抗議する気持ち、  

イエス様の命を惜しむ気持ち、「不正な裁判に抗議する気持ち」も大事にしましょう。


2点目

「他人は救ったのに、自分は救えない。・・・今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」 イエス様は十字架から降りて自分を救うこともできました。でも、なさいませんでした。 もし、十字架から降りたら、勧善懲悪の世界と変わらなかった。日本の時代劇なら水戸黄門様と変わらなかった。 十字架から降りたら、ファリサイ派・律法学者たちの上をいく権力、「懲らしめる」神なら証できたかもしれません。でも、父なる神様は違うことを考えられた。 人間の悪を出させて、悪から救う神、赦す神を十字架のイエス様は証します。 自分を与え尽くす神様、すべてを許す神様を証しされました。 赦す神という真に独創的な宗教を表現なさった。けれども、そのことに気づいたのはわずかでした。私たちも、この百人隊長のように、十字架から降りない姿からゆるす神様を見抜きましょう。

マリア聖堂 十字架上のイエス様

3点目

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 このことばは、イエスが様暗記していた祈りです。イエス様は苦しみの最中に、自分で祈りの言葉を考えるゆとりも時間もありません。そこで、最もよく祈っておられた祈りが、心の叫びとなってほとばしりました。それは、詩篇(22:2〜6)のことばでした。


詩篇 22:2〜6

わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか(なったのですか)。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

イエス様の叫びは、絶望ではなく、神様への信頼でした。


「われに返せ わがイエスを!」イエスを私に返してください、と願う気持ち。 

苦しくなっても「十字架から降りない」決意、

「どんな時でも神様を信頼する」心、

その恵みを願いましょう。

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