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主の昇天

更新日:5月20日

マルコによる福音16:15〜20


 
子どもとともにささげるミサでした

「天に おられる わたしたちの 父よ」

「天」はおん父のおられるところです。「天」はイエス様が生まれる前におられた場所。そして、復活し40日して、帰る場所です。 


今日は「天」について私の体験をお話しします。

四ッ谷に派遣される前、山口県周南市で2つの幼稚園の園長をしていました。2つの幼稚園は車で15分くらいの往復でしたが、ある年、車で50分くらい離れた市の園長も頼まれました。その幼稚園は、前の園長先生がモンテッソーリ教育を否定して混乱していました。


モンテッソーリ教育は、子どもの自主性を重んじます。このミサで追悼の意向のマリア・カタリナ高瀬泰子様はモンテッソーリ教育のために生涯をお捧げしました。高瀬先生は、子供の1つの動き、昨日との変化に気づいて、成長の意味を読み取りました。次にどんなお仕事をしたらいいか?察する能力、観察力、を研ぎ澄ませて子供と向かい合いました。 


モンテッソーリ教育は、一斉保育というクラスの園児同じことをすることに比べると、手間も、労力もかかります。しかし、自主性を大事にされた子どもには「自分でできるようになった達成感」が育まれます。卒園後の成長にも大きな影響を与えます。高瀬泰子様の注いだ情熱は今も卒園児さんに受けつがけれて、実を結んでいます。


ある市の幼稚園では、残念ながら、このモンテッソーリ教育に批判的な方が園長になって混乱しました。私は、司祭になってから2年かけて、モンテッソーリ教育のディプロマをとっていていました。

「次の園長は、よりモンテッソーリ教育の理解がある人に」ということで、3つ目の園長を引き受けることになりました。

けれども、幼稚園では問題の火種がくすぶっていて、歓迎されてないのを感じました。離れているので早起きして、気が進まない幼稚園に運転することになります。心の中では、葛藤を抱えます。

2つの幼稚園なら、子どもたちとも密に関われたのに3つになると、エネルギーが分散してしまう。

運動会、クリスマス劇も十分見れない、関わりが薄くなって、事務的になってしまう。

「どうして自分だけ3つなんだろう?」ネガティブなことを考えてしまいます。

「どうしたものか?」そのうちに、車を運転しながら、主の祈りの「天に おられる わたしたちの 父よ」この言葉だけ、何度も繰り返すようになりました。射祷(矢を射るように、的を絞って祈る方法)と言って、ごく短い祈りを口で唱える、祈りの実践です。


ご聖体を授ける柴田神父と山内助祭

射祷しながら考えます。

「天」 どんなところ? 「天」は信仰の旅の始まりと目的。

「天」は神様の素晴らしさで溢れています。

神様は必ず「おられる」、確信を持てるようになります。


市への50分の運転のうち、半分くらい「天に おられる わたしたちの 父よ」を唱えていました。 毎週続けていると心の中に変化が生まれました。「気が進まない幼稚園に向かっているのではなくて、天の父、に向かって運転している」と思えるようになりました。3つ目の幼稚園の先には、「天に おられる わたしたちの 父」が待っている。そう思えて難しい時期を乗り越えることができました。


さて、今日、お祝いしている主の昇天の意味は、イエス様の地上での働きと使命が終えて、弟子たち、私たちがこの世での神の救いの担い手になることです。そのためには、聖霊が働いてくれなければなりません。 「天に おられる わたしたちの 父よ」射祷を繰り返すことは、聖霊が働く呼び水だったように思います。


私が好きな主の昇天を表現した箇所をご紹介します。


キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 (フィリピ2章6~8節) 

イエス様は天の父を信頼し、天の父はイエス様を引き上げました。この絆に、わたしたちも入りましょう。 


「全世界に行って、福音を宣べ伝えなさい」の使命は、イエス様とおん父との絆があって、聖霊が働いて、果たすことができます。  射祷など、聖霊が働く、呼び水を心掛けましょう。


もし、気乗りしない仕事があったら「天に おられる わたしたちの父よ」と唱えてみましょう。続ける先には、天の国が待っている、と感じられるでしょう。 


私たちも「天の父」を信頼して、使命を果たせるように。そして生涯を終えた時には、「高く上げて」いただけるように願いましょう。


子ミサ終了後、日曜学校は芝生でランチ


 

(参考1)イエスの教えてくれた祈り 「主の祈り」を現代的視点から


(参考2)射祷について

カトリック掲示板「射祷」から引用


【射祷について】

祈り方には、大きく2つの方法があります。一つ目は「口祷(こうとう)」で、祈祷文を口で言葉にして唱える祈り方です。二つ目は「念祷(ねんとう)」で、(祈祷文を)心の中で思いめぐらす祈りです。これは「黙想(もくそう)」も含みます。


そこで、口祷の中でも最も単純な祈り方をご紹介しましょう。それは、カトリック教会では「射祷(しゃとう)」というものです。ごく短い祈りを口で唱える、ただそれだけです。つまり、矢を射るように(繰り返し)お祈りするのです。ものすごく簡単なお祈りの方法なのです。


例えば、「主よ、憐れみ給え。」、「イエス・キリスト私達を哀れんでください。」、「主よ、来てください。」などです。いつ、どこででも、心に思いが浮かんできたとき、心の中でも、口に出してでも唱えることができる。自分の思いを短い言葉に込めて、まさに矢を射るように、神の心に直接訴えかける祈り方です。



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