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年間第33主日

福音朗読:マタイによる福音25:14〜15、19〜21

 

福音の話の前に私の母の話をさせていただきます。 イエズス会に入る前、12年間働いて貯めた通帳を母に預けました。「家族に何かあった時に使ってくれたら」と思っていました。けれど、母の思いは違いました。私が司祭になるのを諦めて、結婚することを期待して、結婚資金を作ろうと財テクを始めました。元々、投資の専門でもない母が、野村ホームトレードに一日に何回もアクセスして、株や外国債券をチェックします。努力を重ねて10年間で車一台分も増やしました。

しかし、母の期待をよそに、私は司祭に叙階されます。息子が結婚する夢が絶たれた母は、私に相談を持ちかけました。


「これから先、美味しく食事するためにインプラントしたいんだけど・・・増やしたお金をインプラントに使ってもいい?」

「もちろん、そうして下さい。」と答えました。

預けられたお金を、頼まれたわけでもないのに増やした話は、今日の福音の例え話に通じると思いました。


きっと、5タラントン(1タラントンが現在のお金にすると6千万円に相当?)預けられた僕も2タラントン預けられた僕も、ご主人様に喜んでもらいたかった。恩を感じて、少しでも増やして、喜んだ顔を見たい、とワクワクしていたのでしょう。

それに対して、1タラントン預けられた僕は、喜んでもらいたいとも思わなかった。重荷に感じたかもしれない。減らして怒られるのを恐れる、冷めた心しかありませんでした。

両者の違いはなんでしょうか? 「心が通っていたか?」「通っていなかったか?」だと思います。

心が通えば、母のように将来に期待して、目で見えないところで努力する。でも、心が通わないと、通帳はそのままだった。取っておくだけになっていたでしょう。

イグナチオは、たくさんの恵みをいただいている神様への恩知らずが「罪」だと言っています。これまでいただいた神様からの恵みに気がつけば、何かお返しをしたいと思う。喜んでもらいたいと思う。反対に、何も恩義を感じていなければ、お返しをしたいとも、喜んでもらいたいとも思わない。

私の中では、投資の専門でもない母が、そこまでしてくれたことが心の余韻になって残っている。インプラントのお金は、母が増やしたお金なので、母にはお返しはできていません。でも、その分、神様にお返ししたい。広く人のため、社会のために役立つことをしていきたい。そんな思いでいます。

いただいた、時間、能力、エネルギーを誰かのために使いたい、喜んでもらいたい、そんなやり取りで天の国が実現します。

これまでにいただいた、神様からの恵みを思い出してみましょう。少しでも喜んでいただけるように、母のような地道な努力を重ねましょう。


寒い朝、主聖堂脇の聖母子像

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