福音朗読:マタイによる福音21:33~43
今は、ブドウの季節でおいしい季節ですが、聖書の中で、ブドウには特別な意味がこめられています。ブドウの木がイエスのたとえられることもあります。最後の晩餐では、ぶどう酒がイエスの血に変わります。今日の福音でもブドウが比喩的に使われています。ブドウが実を結ぶとは、救いが与えられること。逆に取り上げられるとは、救われないことを意味しています。
福音で登場する、農夫たちはユダヤ教の指導者です。彼らは、神から遣わされた預言者たちを受け入れませんでした(34~36節)。神は最後に、ご自分の子イエスを遣わしましたが、殺してしまいました(37~39節)。農夫=ユダヤ教の指導者たちは、人の心の中にある欲深さ、自己中心的なもの考え方への警告、と受け止められます。
では、私たちはどうしたらいいでしょうか?
第2朗読からヒントをもらいます。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げなさい」とあります。私は「捧げる」という言葉に注目しました。「捧げる」は自分のしてきた努力を差し上げることです。見返りは求めていません。
私たちはどうしても相手からの反響を期待してしまいます。これだけ努力したから、評価されてもいいはず。時間をかけたから人から感謝されてもいいはず。と計算してしまいます。「評価されてもいいだろう」と思ってしまいます。自分のしていることを手放せません。
「どうして周りは評価してくれないんだろう?」 そんな悶々としている時に「捧げる」感覚をイメージします。そうすると、心の囚われから解放されます。自分の努力もエネルギーも神様からのもの。それを神様にお捧げしている。それだけで満足しよう。そう思えたら、周りの反響は気にならずに、次の努力にまたシフトできます。
聖イグナチオ 自分を捧げる祈り(スシぺ の祈り)
主よ、わたしの自由をあなたに捧げます。わたしの記憶、知恵、意志をみな受け入れてください。わたしのものはすべて、あなたからのものです。今、すべてをあなたに捧げ、み旨に委ねます。わたしに、あなたの愛と恵みを与えてください、わたしはそれだけで満たされます。それ以上何も望みません。
聖イグナチオは、”罪”は神様への感謝の欠如(忘恩)だ、と言われます。神が私たちになさったことへの無理解が”罪”だ、と言われます。
「捧げる感覚」を持つと「罪」から離れて「救い」につながります。
新しい週、「捧げる感覚」を持って「救い」にあずかっていきましょう。
10月8日(日)は教会祭が行われました。 教会学校のこどもたちの絵もたくさん飾られました。
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