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年間第17主日「イエスは座っている人々に、欲しいだけ分け与えられた」(ヨハネ6:1-15)

 私たちは夕暮れを間近にした、ガリラヤ湖のほとりにいます。イエス様は、ずっと何千人もの空腹を抱えた人々のことを考えています。弟子たちも問題を感じてていますが、何も言い出しません。

 イエス様の方から声を掛けます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばいいだろうか?」 イエス様は、どうすべきかご存知でしたが、弟子たちを教育しようとされます。

 弟子の一人のフィリポはすぐに計算します。「献金を募って200デナリオン集めても5,000人の群衆を食べさせるパンは買えない」と答えます。「買う」という市場的な原理で考えます。

 アンデレは、「手持ちのすべて、5つのパンと2匹の魚を提供したい」という少年を紹介します。けれども「これでは全然足りない、役にも立たない」とアンデレは言ってしまいます。やはり「計算の原理」です。「解散させる」(ルカ9:12)のも、人間的な方法です。

 イエス様は、少年が登場する時を待っていました。人々を座らせるように弟子たちに命じます。このことは、人々が群衆ではなく、神のパンに養われる共同体になることを意味します。

 それから、イエス様はパンと魚を取り、天に目を上げて祝福を唱えます。最後の晩餐を思わせます。明らかに聖体を意味します。そして、パンと魚を裂いて弟子たちに与え始めます。

 神のパンはイエス様ご自身です。これがイエス様の原理です。イエス様の原理は、無償の原理、分かち合いの原理です。ご自身がパンになり、分かち合います。弟子たちもパンを配ります。パンを受ける人たちは、イエス様の友になります。

 私たちも、イエス様の原理になれます。持ち物はそんなになくても、誰でも何かを分かち合えます。「貧しい人、苦しむ人を前に一体何ができるだろうか?」と思いがちです。けれども、パンと魚を差し出した少年のように、自分が持ってるものを差し出せます。少しの愛が、平和や喜びにつながります。神様は、小さな行為を膨らませて、困っている人に行き渡るようにしてくださいます。

 「神様、はわずかなものから、すべての人に必要なものを引き出せる。」イエス様は、今日の奇跡でこう教えてくれます。

 山口から連れてきたカブトムシの幼虫も、立派な成虫になってもらわれていきました。37つがいは、それぞれのお家で、楽しませ、驚かせ、命のお勉強に貢献しています。カブトムシの難民募金も15.8万円になりました。これから、難民支援協会さんを通じて役立てていただきます。虫の命をお世話する心が、難民のお友だちのお世話につながったら、と願っています。

 5,000人はパンと魚に不足しませんでした。それどころか、神のパンは尽きません。ご自分を裂いて分け与えるミサは、最後の晩餐に始まって、今日まで世界中で繰り返されています。パンと魚が増えたこと以上に、これこそが奇跡です。

 私たちは、計算の原理になびきますが、イエス様の無償の原理、分かち合う原理で生きることもできます。小さくても、自分自身を、持てるもの分かち合える1週間にしていきましょう。

(参考:カトリック中央協議会「教皇フランシスコ講話集3」)

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