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年間第27主日(マルコ 10:2-12)

 四ツ谷に来るまで、山口県の周南市で二つの幼稚園の園長をしていました。私は、カトリックの神父なので独身ですが、子どもたちはそのことをよくわかってはいません。

 幼稚園では、給食の日とお弁当の日があります。あるお弁当の日に、たけちゃんという男の子が私の弁当を見て言いました。

 「そのお弁当、誰が作ったん?」

 「園長先生だよ」

と答えます。すると怪訝そうな顔をして「どうして自分で作るん?結婚しとらん?」と聞きます。

 「神父さんは独身なことをどうやって説明したらいいか?」考えてたら、たけちゃんは「どの先生が好きなん?僕、手伝ってあげる」と言いました。

 子どもの発想にびっくりしました。大人はこんなに単刀直入に言えません。でも嬉しくもなりました。たけちゃんは私のことを大事なお友達だと思って、言ってくれたからです。


 では、ファリサイ派の人たちはどうでしょう? 離縁の理由に律法を持ち出します。離縁状を書いて離縁することは、確かに書いてあります(聖書と典礼の下段 申命記24:1)。でも、“神様の想い”と違います。第1朗読の創世記にあるように、神様は、男を「助ける者」として、女を造りました。旧約聖書で「助け」はおもに神からくる助けを表します。だから「助ける」というのは、男の補助、ということではありません。どうしても必要な助けです。対等のパートナーです。人がその二人を引き離してはならないのは、この“神様の想い”があるからです。

 この“神様の想い”が何なのか?私なりに考えました。

 それは「話しかけたら返事がある」ということです。「人は独りでいるのは良くない」というのは「話しかけても応えてくれる人がいない」ことに、神様が心を痛めてる、ということです。「今日はこれだけ頑張りました」と話しかける相手がいない。話しかけても全然答えがない。孤独な世界。考えただけでも怖くなります。

 独身の神父さんにも、そして皆さんにも「話しかけたら返事がある」神様がいます。神様はミッション、仕事を与えてくれます。頑張ったら「良くやった」と労ってくれます。神様の想いを汲んで、頑張る。神様に返していく。そして神様が労ってくれる。そんなやりとりがあれば幸せです。

 パートナーが、いても、いなくても、「話しかけたら返事がある」ことが大事です。


 私に、結婚相手を探そうとしてくれたたけちゃんは、「話しかけたら返事がある」お父さんとお母さんを見ていたから、自然と結婚はいいもの、と思って私にも勧めてくれました。

 そのような夫婦が増えるように願いましょう。また、私たちみんなが「話しかけたら返事がある」神様を感じられるように、願いましょう。


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