先週に続く、イエス様の宣教の第一声の場面です。
イエス様の説教は、故郷の人たちに衝撃を与えました。けれども、ヨセフの子という出生を問われて、人気は一日で崩れてしまいます。寂しくイエス様は去りました。宣教に失敗して故郷を去ります。命さえ狙われて何もできませんでした。無力に逃げ去るイエス様の姿です。
けれども、寂しく失敗することは「神の国を宣べ伝えるには当たり前のこと」です。同じルカが書いた使徒たちへの手紙(使徒13:45)にこうあります。「ユダヤ人はこの群衆を見てひどく妬み、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」
「宣教は失敗し、み言葉は受け入れられませんでした」 パウロたちは、町から町へと悲しい旅を続けて、段々と、イエスの宣教の初め、ナザレで経験したことが分かりました。
今日朗読された場面でも、町の人たちは「イエスをわがものにしよう、地域おこしのために働いてもらおう」と思っています。どうして自分たちの村ではなくカファルナウムでしたのか? 不満が爆発します。 一方、イエス様は、町おこしに使われる危険を感じます。イエス様は、地域のヒーロになるつもりはありません。もっと広い地平。「永遠」の世界を垣間見せるためことが使命でした。
イエス様が伝えたかった「永遠」を3つの点から考えました。 永遠とは
目で見える世界が全てではない、と信じることです。私たちは、今、見ていること、経験していることだけが全てで、それ以外の世界はない、と思ってしまいます。でも、ミサにあずかって、お祈りしていると神様が望む世界が見えてきます。もっと何かできるはず、もっと世界をよくできるはず、と思えてきます。
今の状態は、ずっとは続かない、と信じることです。神様の望む世界は遠くにあります。なかなかうまくいかない、なかなか成果が出ない時もあります。落ち込んで、がっかりすることもあります。でも、今の状態はずっとは続きません。いつか成果が出る、そう信じて、できることをしっかり続けられたのでしょう。遠くを見ながら成果が出る日を待ち望みましょう。
苦しいときは成長の時、清めの時、挑戦の時、と受け止めましょう。私たちはいろいろな試練にあいます。「もう無理なんじゃないか?」「この程度にしておけばいいんじゃないか?」そう思うこともあるでしょう。でも、苦しい時を、自分の成長の時、清めの時、挑戦の時、と受け止めましょう。
イエス様は、私たちに神の国を伝える使命を与えています。けれども、初めからうまくいくと約束はされていません。むしろ、初めからうまくいくのは、イエス様が村おこしに担がれそうになったように、世俗的なことです。でも、それを続けても、イエス様が目指して神の国は実現しません。 失敗は織り込み済み。その先に神様の国が実現することを心に留めて新しい一週間を過ごしましょう。
参考文献
『イエズス会黙想会』カルロ・マリア・マルティーニ枢機卿指導 日本管区 松本紘一訳 2000年
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