導入
今日の箇所は、福音宣教者の召出しのモデルです。「おことばですから網をおろしてみましょう」 というイエス様の言葉の意味を深めましょう。
説教
朗読された箇所の背景を説明します。
ペトロは「自分の船を出して欲しい」とイエス様に言われてうきうきしていました。有頂天だったでしょう。時の人、注目の的のイエス様が呼びかけてくださったのですから・・・。
ところが「沖に出て漁をしなさい」とイエス様は言われます。ペトロの機嫌は一変します。
「今は魚のいる時間ではないはず」・・・イエス様の言葉に疑いを持ちます。「もし漁に出て何も取れなかったら恥をかく。笑い物にさえなる。きっぱりと断った方がいい?」という思いがもたげます。「全力を尽くして漁をしたのに、素人のあなたに言われたくない。」という思いがペトロにあったでしょう。
「苦労して何も取れませんでした」というギリシア語の“コピアサンテス”は、肉体労働の苦労から使徒的な労苦に転じた動詞です。「わたしは使徒の誰よりも多く骨を折ってきました」(1コリ15:10b)でも同じ動詞が使われています。 福音宣教につとめても実りがない、疲労困憊。そんな状態にも当てはまります。
「イエス様がいう通りで魚が獲れるんなら、もっと早く獲れていたはず?」
「やっても無駄。家に帰るか?」 「折角イエス様の招きを受けたのに尻ごみするのか?」 ペトロは躊躇したでしょう。今こそ、ペトロが自分を賭ける瞬間です。
迷ったペトロでしたが「みことばですから、網をおろしてみましょう」と決心します。
ペトロは試練を乗り越えることができました。
「みことばですから」 聖書の詩編では、神の前で人間の取るべき態度を表現する言葉です。
「主よ、あなたの言葉に信頼します」
「わたしに命を与えるのはあなたの言葉です」
「わたしはあなたの言葉に身を委ねます」
この言葉で、ペトロは個人の召し出しの域を超えて、勇気ある決断をして自分を神に賭けるモデルになりました。
利害の打算を超えて、主の言葉に自分を賭けていく。イエス様が福音宣教者を試す教育の場面です。
召出しに計算高さは良くありません。自分の計算から飛び出る、危険に挑む必要があります。
福音宣教者は、理性を超える「何か」に特徴づけられます。
結局ペトロは、舟から湖に飛び込みます。
イエス様は、ペトロに危険に挑戦するように導きます。鍛えるのも養成の特徴です。
「お言葉どおり」にしたら、豊漁で人の助けがいるほどでした。
これを目の当たりにしたペトロは、イエスの前にひざまずきます。「主よ、私は罪深いのです。私から離れて下さい」
イエス様の力がペトロに働いて、罪深さを自覚しました。
ペトロ自身、罪深かった訳ではありませんが神の力、聖性の前で自分の無力さや罪深さを感じます。
イエス様はこせこせした人間ではありません。「私に従いたいというのか。それなら罪深さを忘れないように。そうしないと私に従う資格はない」などとは言われません。
イエス様の寛大な態度で、ペトロは浄化と謙遜に導かれます。ペトロは、押し付けられてではなく、自ら神の憐れみを必要としていることを自覚します。これが押し付けないイエス様のなさり方です。
福音宣教者になるには、まずペトロのような「悔悛」が必要です。神の憐れみ、神の力、神の慈悲を思えば思うほど、自分が救いを必要としていることがわかります。そして自分が、貧しい者であることを思い知ります。そして神の力を受け入れるようになります。
自分自身を振り返ると、「もし、東日本被災の出来事がなかったら?」という思いがあります。ボランティアに行かなかったら、身の回りのことをこじんまりとしていただけかもしれません。自分から何かにエネルギーを注ぐようにはならなかったかもしれない。指示されたことだけしていればいい、と思うようになったかもしれない。私にとって、東日本大震災のボランティアが後からの使徒職に影響を与えました。
苦労しても、内省しても、神の力(ボランティアに行って自分の小ささ・無力さを感じる)に心を開かないと福音的にはなれない。
イエス様という偉大な方がいるので、ペトロは自分が罪人であることを周囲に知られても平気になれました。人々の目を気にする必要がなくなりました。
イエス様は、ペトロの悔悛に必要な場面設定(私にとってボランティアの体験)をされました。
最後のどんでん返しです。ペトロは罪深さをゆるしてもらおうとしましたが、イエス様は「恐れるな、今、この瞬間から、あなたは人をすなどる者になる」と言われます。
神様は、人間の置かれている状況を覆しながら変容していきます。
ペトロのように、神の力を経験することが、宣教者の養成です。
私たちの信仰生活で、ペトロと重なる体験がないか、振り返りましょう。
Comments