四旬節第5主日
- shibatakiyoshisj
- 4月6日
- 読了時間: 6分
古代社会では、姦通は、共同体の人間関係を破壊するものとされていました。現場が見つかった場合は「石打ちの刑にする」という決まりさえありました。

律法学者、ファリサイ派の人たちは、イエスを訴える口実に、この女性を引っ張ってきました。「石打ちにしてもいい」 イエスが日頃説いていることと違うことを言うことを想定していました。 ユダヤ教の律法に反することは公に言えないはず。 そのような思惑がありました。 それに対して、イエス様は意表をついて、しゃがみこんで地面に字を書き始めます。
「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい」
この言葉で石を投げようと思っていた人は、他人に向かっていた気持ちが自分に向くようになります。 視点がひっくり返りました。
他人に石(非難の言葉)投げるときに自分の罪を見なくてはいけない。
先週、マタイ受難曲を聴きにいきました。マタイ受難曲は聖書の言葉と、創作の部分があります。 創作の部分というのは、神学者のH.ミューラーの説教をモデルにして、それをペンネーム ピカンダー(本名はクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ)が歌詞を作詞し、バッハに提供した、と言われています。
その中には、先ほどの視点をひっくり返した箇所がいくつも登場します。
[0:11:03] 第1部-第2曲 レチタティーヴォ
「イエスは話を終えると」
[0:12:04] 第1部-第3曲 コラール
「心からお慕いするイエスよ、どんな罪を犯されたのですか」
[0:13:44]第3曲 コラール
心からお慕いするイエスよ、どんな罪を犯されたのですか?
これほど酷い判決をお受けになられるとは。
その咎は何でしょう、いったいどんな悪事に
加わられたのですか?
[0:32:12] 第1部-第10曲 コラール
「私です、私こそ償うべき者です」
第10曲 コラール
私です、私こそ償うべき者です。
手足をいましめられ、
地獄につながれて。
鞭や縄、
あなたの耐えられたものは
私の魂にこそふさわしいのです。
[0:50:20] 第1部-第19曲 レチタティーヴォ(テノール)
「ああ、痛ましいこと!さいなまれた心がここで震えてい
第19曲 レチタティーヴォ(テノール)とコラール
ああ 痛ましいこと!
さいなまれた心がここで震えている。
心はくずおれてゆき、御顔は青ざめてゆく!
こうした苦しみのすべての原因は、何なのですか。
裁き主が彼を裁きの前に引き出した。
そこには慰めも、助ける者もいない。
ああ、私の罪があなたを打ったのです。
彼はあらゆる地獄の責め苦を忍ばれる、
他人の略奪をあがなわれる定めなのだ。
ああ主イエスよ、私が、(十字架の地獄の責め苦)を招いて
あなたが耐えておられるのです。
ああ!私の愛が
視点がひっくり返ることが「回心」。四旬節は回心の時。
「私は何も罪犯していない」と思っていたら、イエス様の十字架の意味も、罪の赦しも関係なくなってしまいます。 復活の意味も薄れてしまいます。
律法学者、ファリサイ派の人たちに責め立てられても黙って「地面に字を書くイエス」。
黙って耐えるイエス様の姿は受難の時にもあります。
不利になるように偽証した人は 「この男は、神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言います。 そこで大祭司は「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をそしているがどうなのか?」イエスは黙り続けておられた。(マタイ26:61〜63a)
イエス様は、嘘の訴えに対して黙っています。
この場面、マタイ受難曲ではこのように描かれています。
[1:34:19] 第2部-第34曲 レチタティーヴォ(テノール)
「イエスは沈黙している。不実な嘘に対して」
第34曲 レチタティーヴォ(テノール)
イエスは沈黙している、
嘘いつわりに対して。
それは私たちに、次のことを示されるためだ。
憐れみに満ちたその御心が
私たちのために、受難へと備えていることを。
私たちも同じ苦しみのとき
イエスにならって
迫害の中で沈黙を守ろうではないか。
抵抗する、やり返すのではなく、苦しみの中で沈黙を守る。迫害の中での決意が表現されています。
「回心」の後は、「沈黙のイエス様」に倣う。イエス様の十字架を傍観するのではなくて、苦しみにあってもイエス様についていく者になっていく。その雄々しさに倣いましょう。

さて、このミサ、2025年4月から月の第1土曜日の18時のミサは、司祭・修道者の召し出しのためにお捧げすることになりました。
イエズス会について言えば、日本人で司祭養成中の神学生は1人だけです。(2018年入会、インドで中間期をしている岡田幸人さんだけ) 過去6年、司祭志望の入会者で残っている人はいません。司祭叙階まで10年かかります。 私が2010年の司祭叙階、ニャー神父さんは2017年、山内豊神父さんが2024年、7年間隔くらいで叙階されていましたが、これから先は?
これから教会はどうなるか? 後継者は? 信者さんにも考えていただき祈っていただけたらと思います。
今日はトップバッターで私が司式していますが、これから岐部共同体の神父さんたちが順番で召し出しのためのミサを司式します。
私の召し出しについて言えば、12年、住宅会社の営業をして、大型物件の契約、大きなクレーム(100坪で8000万円の物件、4000万円の残金は建物の出来を見て支払うかどうか? 判断する、と言われてしまう。今か何をしたら? (すでに業者さんのクリーニングは入っていましたが) 引き渡しの前の晩、9時〜1時まで、朝5時〜8時、クリーナーをかけ、床を雑巾掛け、ガラスは新しいタオルで拭き、食器棚は消毒してすぐにスプーンなど入れられるようにしました)
結果、「とても満足しています。友人が家を建てることがあったら柴田さんを紹介したい」と言っていただきました。 満足いただけて良かった。
ほっとして運転する車の中で「あなたの仕事は他にある」という声を聞いたように感じました。
難しい仕事を終えてほっとした時、この言葉が繰り返されたので、「自分の人生、これでいいのか?」と考え始めるようになりました。切羽詰まると夢の中でも仕事をしていたエネルギーを別のことに、神の国のために使った方が幸せになれるのでは?
しばらくして「司祭」が浮かびました。その時、35歳、躊躇もしました。けれども運転中に、毎日唱えていたお告げの祈り「お言葉通りになりますように」の祈りが後押しをしてくれました。
お手元に、「司祭・修道者の召し出しを願う祈り」のカードがあります。イコンはペトロ・岐部カスイ です。私が院長をしている修道院の守護の聖人です。
岐部修道院の若手会員の名前が記されています。
ペトロ・岐部 カスイ 1857年〜1639年
江戸時代の禁教令が出て国外追放されマカオへ。イエズス会への入会を志しましたが、反対にいます。ローマなら可能性があるかもしれない! インドから陸路でペルシアを経てパレスチナへ。一人で5万3000キロを歩き通しました。 途中、パキスタン、イラン、イラク、ヨルダン、シリア、キリスト教の大敵だったマホメット教徒にあう命かがけの冒険でした。ローマに辿り着いて、司祭叙階。 祖国、日本に戻って宣教したい。 迫害の中、帰国し、宣教の末に捕まり殉教。
不屈の精神の持ち主、ペトロ・岐部。
後に続く司祭・修道者が生まれることを願って 召し出しのための祈りをご一緒に唱えましょう。
福音朗読:ヨハネによる福音8:1~11
参考
「ローマまで歩いた不屈の人 ペトロ岐部」(カトリック中央協議会)
https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/kibe187/kibe/
「ペトロ・カスイ岐部神父」(カトリック東京大司教区)
ペトロ岐部カスイ(大分県立先哲史料館)
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