2025年四旬節 第1主日
- shibatakiyoshisj
- 3月9日
- 読了時間: 4分
朗読された箇所は、イエス様が洗礼を受けた後、荒野で悪魔から誘惑を受けられた話です。
イエス様の場合、霊(聖霊)に導かれてということなので、必然的に通らなければいけない道として描かれています。それは、神の愛に反するもの(敵)が何であるかを知った上で宣教を始める必要があったからです。

3つのうちの最初の誘惑は「これらの石が、パンになるように命じたらどうだ」。
「パン」。一般的に捉えたら物質的なもの、お金、所有欲。そういうものが、神の愛を邪魔しています。心に愛がなければ、愛でないもので心を埋めようとします。愛でないもの・・・物質的なものへの執着、所有欲で自分の心を埋めようとします。
2番目は「国々の一切の権力と繁栄を与えよう。」
人間の傲慢心。自分を高く見せたい、王様にしたいという根深い欲望。 自分が人よりもすぐれていると思いたい。神の愛の代わりに,ものや人からの評価、自分を傲慢にすることで心を埋めようと誘っています。
3番目の誘惑は、聖なる都を想定した誘惑。
神殿の屋根から飛び降りたら、多くの人から脚光を浴びます。メシアとして力があることを示せます。サタンは、名誉欲でイエスをくすぶりました。神様の愛がなければ、人からの評価、名誉心で自分の心を埋めるようになります。人の評価を求めてしまうと、神様の愛からずれてしまいます。
では、自分自身への「誘惑」は何か? 振り返ってみました。
「考えつくことはやってみても」・・「あれが足りない」と言われたり、自分でも気付いたり・・・
そうするとガクッとしてしまう。 「自分はダメだ」「もう無理だ」と烙印を押してしまう。
気持ちの裏には「人に指摘されたくない気持ち」があります。そこからどう解放されるか?
「頑張っている自分を認める」こと。同時に「頑張っているのはチリに過ぎない。誇ることじゃない」こと。「神様のためのささやかな努力」と最近思うようになりました。
さて、今日は、10時のミサで洗礼志願式があります。キリスト教の初めの300年間は、ローマ帝国の厳しい迫害が続き、その中でキリスト信者になるということは命懸けのことでもありました。殉教を覚悟の上での決断でした。信仰へと進むには、自分が変わる用意が必要です。ローマの教会では、求道者の準備期間を3年と定めていたほどです。その間に、信仰と回心を深め、生活がどのように変わっていくかを確かめていました。

「正しく生活していたかどうか、やもめを敬ったか、病人を見舞ったか、あらゆる良いわざを行なったかが調べられる」(『聖ヒッポュリトスの使徒伝承』20)このような生き方が変わっていくことを「生活の改善」と言いました。
「キリスト信者になりたい」気持ちを確かなものとするために、共同体の儀式で祝います。現在は「洗礼志願式」と呼ばれていますが、もう一つの表現で「選びの式」です。志願式ということばは求道者の決心を表すものですが、キリスト信者になりたいと望むことは、神様の恵みの働きです。キリスト信者になるように、神がこの人を選んでくださったことを、教会が公に宣言するので「選びの式」といいます。その選びに応えるしるしとして、入信志願書に署名をします。
私の講座から洗礼を志願されているお母様は、子供の頃、カトリックの幼稚園、学校に通っていて、あたたかいシスター、先生方に見守られて「神様はいてくださる」と純粋に信じていた。それが成長して大人になって、働き、結婚して忙しくなるとその感覚が消えた。娘がカトリックの幼稚園・学校に通うことで、昔の自分を見た。「神様はいてくださる」という感覚が蘇った。「その感覚から離れたくない」という思いで勉強会を始めました。「ママは洗礼を受けることにしたよ」、と娘に伝えると「私も受けたい」と。親子で勉強会を始め、今日、洗礼志願式に臨みます。
65名の志願者が、それぞれに神様に呼ばれて、「選びの式」に与ります。私たちも、「神様はいてくださる」という感覚を鋭くしましょう。志願者にために祈りながら、誘惑と闘い、回心の歩みを続けましょう。
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