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四旬節第2主日

どうして四旬節中に主の変容の場面が朗読されるのか?修道院でも説教が難しいという話があります。そこで、福音箇所の前後関係をヒントに考えてみました。

主の変容 光り輝くイエス様とモーセとエリヤ

今週の福音の直前には、イエス様の「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」と言う問いかけに対してペトロは「神からのメシアです」と答えています。(ルカ9:18〜20)ペトロはイエス様からの信頼を勝ち得たようにも見えます。


しかし、イエス様は続いて初めて受難予告をします。(ルカ9:21〜22)マルコ福音書にはその時のやりとりをこう記しています。

ペトロはイエスをわきへお連れして、「そんなことがあってはなりません」といさめ始めた。イエスは振り返って、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マルコ8:31~33)


ペトロは「何か、気に触ることを言ってしまったのか?」動揺します。イエス様がわからなくなります。 

ペテロは旧約で育っています。旧約聖書にある君臨する王様のイメージをイエスに重ねています。イエス様がローマ帝国を倒す、この世に建て直すことを願っています。ファリサイ派、律法学者たちの考えを覆す、社会の変革を期待しています。ですので、主の変容の場面で、イエス様がモーセとエリヤと語り合っている姿を見て、ペトロは安心したでしょう。律法を代表するモーセ、預言者を代表するエリヤが登場しているから、自分の思いに間違いはない。やはり、イエス様は自分たちの期待に応えてくれるに違いない、と思います。


「仮小屋を3つ建てましょう」というペトロの提案は、目の前の素晴らしい光景が消え去らないようにと言う願いからでした。

けれども、今日の福音の後では、悪霊に取り憑かれた子供を癒した後(ルカ9:37〜43)、短く二度目の受難予告をしています(ルカ9:43:45)。それに対して、「弟子たちは、怖くてその言葉の意味が尋ねられなかった。」


自分たちが期待する王様の片鱗を見て安心する、けれども、受難予告(神様のご計画)を聞いて動揺する。自分の思い通りだと安心し、思いが違うと動揺する。その間に主の変容があるのでしょう。 


ここからは、あるご家族のお話です。ある娘さんは、お病気のお母様のために体力がつくように一生懸命献立を考えて、料理を作っていました。いつもお母様は「ありがとう」と感謝の言葉で完食していました。お母さんが残さず食べてくれて安心していました。

けれども、ある時、食べられなくなってしまいました。その時、娘さんは「食べないと病気と闘えないよ」と諭しました。それでもお母さんは食べられませんでした。大動脈瘤に圧迫されて食べたものが真っ直ぐ下に降りていないので食べられなくなっていたのです。けれども、そのことは知らずに「残すと栄養不足になってしまうよ」と娘さんは声をかけました。


結局、その食事が、口から摂れる最後の食事になってしまい、娘さんは動揺されました。「至らなかった」という娘さんの後悔。一生懸命でも至らないところができてしまう。

でも、いつも感謝の言葉を口にされたお母様としては「せっかく作ってくれたから、残さず食べたいのよ。ごめんね。最後があなたの作ってくれた食事で嬉しかったわ」という気持ちだったでしょう。そのことがだんだんとわかり、娘さんは、動揺から、後悔から、解放されていきます。


ペトロもそうでしたし、娘さんも、私たちも、安心したり、動揺したり。

でもイエス様は、お母様は、至らない私たちを、感謝して、受け止めて、励ましてくださる。

四旬節、至らなかった自分を認め、赦しを願いましょう。ペトロは、安心と動揺を繰り返しました。 自分の思いと違う、と動揺している時は、奥が深い神様の計画の時かもしれません。動揺した後、神様の計画に気づいて従えるように願いましょう。


 

福音朗読:ルカによる福音 9:28b〜36


2025年3月 主聖堂のイエズス様のご像を仰ぐ


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