四旬節 第4主日
- shibatakiyoshisj
- 3月31日
- 読了時間: 4分
四旬節に「放蕩息子のたとえ話」が朗読されるのか? 2つの理由で考えました。

理由の1つ目。キリスト教は「罪」を「罰」を結びつけるのではなく、「罪」と「恵み」をセットで考えます。「罪」を意識することは、「神の恵み」に近付くことです。「回心」の目的は、「自分の罪」に打ちひしがれるのではなく、「信仰の恵み」を実感することです。
たとえ話で弟は、まだ生きているお父さんから財産を貰おうとします。財産が欲しい。お父さんはもういらない。「罪」に落ちています。 全財産を使い果たして、お腹が空いてたまらなくなって父の元へ戻ります。父は無条件の愛で迎えてくれます。「罪」から「恵み」への体験をします。
このプロセスと重なる体験があります。イエズス会に入会した年に大黙想(霊操)をしました。1ヶ月の黙想を4週に分けて行いますが、第1週にまとめが「放蕩息子のたとえ話」の黙想でした。
これまで真面目に働いてきたので、兄の要素が強いと思って黙想していました。
余り心は動かず、このまま第一週(罪からの清めの黙想)が終わるのかと思っていた。
司祭を志すことは信者さんの家族なら歓迎される? でも、私の家族は反対している。家族の期待に反している。親不孝をしている意識が強くありました。
家族と「イエズス会に入るかどうか?」話し合った時のことを思い出しました。
そして入会に反対していた父が最後に言ってくれた(送り出してくれた言葉)が蘇りました。
父は畳を叩きながら「ここがお前の家だからいつでも戻ってこい」 父は自分の望みではないけれども、私がイエズス会に入ることを許してくれました。さらに、挫折しても「戻ってこい」と言ってくれました。 親の望みに反することをして、もし失敗しても受け入れてくれる父。自分はまさに「放蕩息子」でした。
そう気付いたあと、考えました。
私も父の元に帰るのか? つまり司祭は諦めるのか? イエズス会に留まって司祭を志すのか?
祈った末に、父の想いに感謝しながら司祭を志すことを選びました。
父が払ってくれている犠牲が司祭になる動機を強めてくれています。
「罪」から「恵み」へ。神様から離れていた自分が、神様の恩を感じて「恵み」に戻る。回心の歩みを続けましょう。
以下の内容は 『宣教者を育てるイエス ルカ福音書による黙想』 カルロ・マリア・マルティーニ著 今道瑤子訳 女子パウロ会 1988年 第八黙想 イエスが十字架からさし出される救い から表現を変えて紹介しています。
理由の2つ目。
意外に思われるかもしれませんが、放蕩息子のたとえ話は(ルカ15章の三つのたとえ話)は、ルカ23章の回心して救われる強盗のエピソードと関係があります。十字架にかかった時でさえ、隣の強盗を救うイエスさま。天の父の無限の愛を人生の最後でもお示しになりました。けれども、弟子たちは逃げてしまったし、大衆はただ見ているだけでした。
「救われたのはたった一人じゃないか?」「あとの人はそのまま家に帰ったしじゃないか?」と疑問を持つかもしれません。 どうして、たった一人の救いのためにイエスさまはむごい死を遂げたのでしょう? 釣合が取れなかったのではないでしょうか?
たとえ話では、1匹の羊、1 枚の銀貨、1人の息子という具合に、どれも「1つ」が強調されています。羊の場合は、100 頭のうちの「1頭」が大事、という常識はずれに不釣り合いです。ところが羊飼いにしろ、父親にしても、見つけ出して大喜びしています。
たとえ話は、神様がたった一人の人間、しかも一番小さな人間を大事にすることを示しています。
その姿は、イエスさまが十字架上で、 人々から見捨てられた強盗を救う神さまのイメージと重なります。
たった一人でも、救いが必要な人のために、神さまはどんなことでもされる。どのような犠牲もいといません。もったいないことではなく、一人の救いが神さまの喜びです。 聖書では、救われた人の喜びがいつも強調されています。
「いっしょに喜んで下さい。」「祝宴を開くのは当たり前ではないか?」と人々と祝おうとします。
神様のこのようななさり方は、平等を求める態度とは違います。全体的な結果より、一人の救いを優先させます。
一方、私たちは、全員だったり、多くの人に気を配ることを優先しがちです。また、多くの人に奉仕している時には、喜びが湧きにくいものです。 たった一人でも大事、大きな価値がある、そんな神様の心をたとえ話から汲み取りましょう。
神様は、平等とは違う基準で私たちを見ておられます。 迷い出た私を探し、見つけたら喜ぶ。 神様の思いを心に刻んで回心を続けましょう。
ルカによる福音 15:1〜3、11〜32

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