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純女学徒隊殉難の記録より「あと始末」(糸永ヨシ)

更新日:2022年8月16日

『純女学徒隊殉難の記録より』(初版 1961年 純心女子学園創立80周年記念

再刊行 2014年)

あと始末

糸永ヨシ(今回の黙想の最高齢者でまもなく96歳になられるシスター。元理事長)

 

冒頭

 あれから16年が経った。「忘れられない」というのは事実だが、細かいことの記憶はだんだん薄れていってる気もする。思い出すままに記して、今日まで生かしていただいた責任を果たさせていただきたいと思う。

 すでに永遠の光栄にあるみなさんのご死去をもう悲しみはしない。けれどもあの時、私はもっともっと皆様によくして差し上げなければならなかった。8月11日の朝、時津(とぎつ)の救護所へ送られるために、道端で寝かされていらっしゃった3年生(当時高等女学校は12歳から)の上山睦子さんが腫れてただれたまぶたをかすかに上げて「先生、怪我をしてない方が羨ましい。怪我をしてなければお手伝いできますのに。」とおっしゃった。「可哀想に!」私は本当にたったひとつのかすり傷さえ負っていない自分を省みて、すまなさに泣いてしまった。それだからこそ「まだまだ皆様によくして差し上げるべきだった」と思うのである。足りなかったこと、行き届かなかったこと、卑怯だったことをお許しください。

それから、あの時、学校に安否確認に訪れたご父兄の方々、私が死ぬまでかかって到底わかり尽くせない尊い親御様のお心も知らず「お心はわかっていますけど、一生懸命やれるだけやって見つからないのですから・・・」などと、僭越極まる申し上げようをしたことを心よりお詫び申し上げます。

原爆投下から数日後

 それから岩屋橋へ出た。橋の下で呼ぶ人がいる。下ってみると男の方が「この方たち3人は純心の生徒さんで、夕べから『学校に連絡したい、連絡して』と頼まれましたが、私もけが人を抱えてどうしようもなく、“すまない”と思っているうちに今朝こと切れていました」と言われた。

綺 麗な浴衣を着て、3人きちんと並んでうつ伏していた。顔は腫れて見分けがつかないが、白靴につけてある名前から一人は増田ヨシノさん、あとの二人は服の燃え残りから塩塚さん、滝下さんとわかった。3人は盲学校へのお使いの途中で被曝し、服もすっかり焼けていたので、おじさんが浴衣を着せてくださったとのこと。「わかっていたら早く来てあげたのに・・・」 つい数日前に動員されたばかりの高女2年生(おそらく13歳)、戦いとはいえ、一晩もだえ、もだえて、肉親はもちろん、親しんだ先生方の一人ともお会いできず、言いたいこともあったろうに、一緒にこと切れた訳でもなかったろうに・・・。仕方のなかったとはいえ、私は今まで涙なしにこの人たちのことを思い出すことができない。他のたくさんの方々も同じようなものだったろう、と思うと本当に堪えられない気持ちがします。

 再び死体を探しに行ける限り歩いた。どの学校の生徒も同じ動員学徒の作業着を着ているし、顔は膨れてしまっているので、誰とも見分けがつきにくい。ことに川べりや山陰では、そこまで逃げてきたのだから、8月10日の日いっぱいくらいは生きていたのだろう。それでたいていはうつ伏して死んでいた。また行きずりの心ある人からこも(むしろ)をかけてもらった死体もあった。それから一体一体残らず調べた。動員学徒の遺体なら、わかるまで左右へ転がしたり、服をハサミで切り開いたりして名前を探した。

 お骨拾いは、12日ごろだったか。幼い頃から聞いていたお骨拾い。信者の私は、聞くだけで見たこともなかった。今たくさんの人のお骨を自分で拾う。なんとも言葉にならなかった。仲田先生と長谷先生が先頭に立って大変丁寧によくなさった。救護所や道端で純心の生徒の世話を焼いたり、尋ねてみたりしていると、そばの女の子が「純心の先生、私はK校の生徒です。○○町です。よろしくお願いします。」と言われた。お二人の先生のわが子を思わんばかりのその熱心さに、こんな不幸の中でも、なんと幸せな純心の子どもたちだろうと思った。拾ったお骨は三菱からいただいた白木の小さな箱に詰め、大事に持ち帰って学校の防空壕の床の間にも似た場所に次々に並べた。夜は一緒に休んだ。数日前までは、割り当ての教室や壕で枕を並べたこの方たちが、今はひとかけらのお骨となって納められている。ほのかなお骨の匂いが狭い壕に漂って懐かしさを増した

 12日、13日ごろには遠いところからもご父兄の方々が次々来校されて、いとし子の行方をお尋ねになった。現場の実際の調査と各病院からの報告をもとにして、たとえ悲しい知らせでもなんとかお返事できるのはよいとしても、たくさんの方に「不明」とお答えせねばならないのは本当に心苦しかった。神川さんのお父上は「わからない」と聞くなり、畑の畔に座り込んでしまわれた。希望すべくもない希望を子どもの上にかけながら、ご老体を神の浦からはるばる歩いておいでになったのだ。2年生(おそらく13歳)の三浦妙子さんもずっと不明だったが、お父様に「すみません。おうちで待っていてください。できるだけ探してみましたが、今のところわかりませんので」と申し上げると、「いいえ、私は帰ることなんぞできない。毎日木場へ車を引いて手伝いましょう。妙子が見つかるまで。」とおっしゃった。

 「こんなところに事務所を・・・さっぱりわからん。ちゃんと探しているのか!」とカンカンに怒られたお父さん、無理もないこと。子を思う親の真情である。それにしても尊い親に慈しみ育まれる人の子はなんと幸せなことだろう。仲村さんのお姉さんは防空壕からお骨を出してお渡ししたら抱いたまま壕の入り口でしばらく泣いておられた。葉子ちゃんのお父様も宅島さんのお母様もみんなみんな在りし日の出来事を語って泣いて行かれた。毎日毎日もらい泣きのうちに壕のお骨が1つ1つ減っていった。

校庭には三菱兵器の死者が朝から晩まで運ばれて、まさしくかばねの山となる。堪え難い臭気と情景とを前にして昼食をいただき、午後の仕事に出かけて帰る頃にはその死体の山に火がつけてある。私どもは幾晩か、この火葬の火を明かりに夕食を摂りお祈りをした。この頃から校庭の一隅には幾人かの日本兵が天幕を張って駐屯していた。

 ある日(15日か16日)、ローザ様が時津から帰って来て、声を潜めてささやかれた。「終戦ですって。敗戦だそうよ。」「嘘、嘘」「ほんと。いろいろ世話をしていた兵隊さんたちも引き上げてしまったもの。」と。

今は亡き池田先生も愛宕山から包みを背負って来校され、重大放送のことを話してくださった。他にも幾人かの方々が同じことを言っていかれた。まごころ以外に何も持たず、この新型兵器に対してどんなに力んで見ても、何ができようはずもなかった。しかし9日のあの時以来、サイレンが鳴ればどんなところにいても素早く隠れて、命を惜しんで来たのは、ただただ死んだ生徒たちに代わって・・・と思ってだけ、してきたことだった。だからこそ、その時「終戦だ。敗戦だ」と聞いてもおいそれとは納得がゆくはずもなかったのだ。でもいつの間にか警報が鳴らなくなり、私どもに気持ちも狭いものから広い平和への渇望と代わり、生徒一人一人への愛情と代わっていった。

 あと片付けも少しずつはかどっていくらか落ち着いてきたある日、山の校長先生はお考えになって、校長辞職願をお書きになった。おっしゃるままに長谷先生と仮事務所にいられる学務課長にお届けした。辞職願いを手にしたまま、一部始終をお聞きとりになった課長様は「帰って校長先生に申し上げてください。純心はもう一度復興するでしょう。校長先生のおけがもきっとお治りになります。勇気をお出しください」とおっしゃって書類をそのままお返しになった。

 片岡先生が復員して帰校されてからは、学校の各方面にご活躍くださっていろいろなことがどんどんはかどっていった。校長先生もどんなにお心強く感じられたことでしょう。何よりも大事な学園の復興に格別なお力添えをくださったのだ。片岡先生の他に、体育の徳永先生、それに脩院の中田さん、長谷先生方の日夜のご交渉で、いよいよ10月初旬には大村海軍航空の工員宿舎跡へ校舎を移転することになった。

 それに先立つ10月9日、あの摂理に日より2ヶ月目、75年は草木も育たぬと言われた言葉をよそに、9月初めから降り続いた雨に潤った校庭には、のびるにまかせたて夏草がはびこっていたが、生き残った職員生徒が多数集合して第1回目の慰霊祭を草の茂みの中で行なった。松永義徳先生が深堀綾子先生以下、200余名の殉職者のお名前をお書きくださり、「夏草のしげる純き園生に・・・」と弔歌をうたい、弔文を読んだ。一日中降りしきる小雨に、生々しい記憶がひとしお悲しく痛ましく涙を誘った。

 浦上教会の慰霊祭の時に、生き残った方々が逝った家族の墓標となる十字架を持って集まっておられた。永井先生が長い弔文を朗読されたが、その間中どの人もどの人もみんな泣きに泣いていた。純愛学徒隊員も悲惨を極めた状況下、苦しんで逝かれた。けれども、どこの病院、どこのおうちから伝えられるお話も、残らず立派なご最期で克己、忍耐、犠牲、隣人愛に秀で、聖母賛歌さえも歌って逝ったという。まことに純心聖母の子にふさわしいものであった。短かったけれども、誰よりも生きがいのある、まことの人生を全うされた方々であった。こう信じて私はその殉難を誇り、讃えてやまない。それなのに、記念日を迎えるたびに、不覚にも涙に暮れてしまうのはなぜだろうか。 慈悲の聖母、御身の子らと、その子らが愛した学園をいつまでも御身の御守護のもとにお置きください。

 一周忌もま近い1946年7月、思い出の日を思わせる暑い日が続くようになった。ようやく起きられるようになった校長先生は、さっそく片岡フィロメナ先生を同伴して、五島地方のお墓詣り、ご遺族弔問に出立された。その時のお話によれば、30軒を訪問、どの家でも「皆お立派な最期をしました」と報告された。歌を歌って、泣き崩れる親をかえって慰め、勇気付けて・・・「私どもも娘のように臨終を遂げたい。ありがとうございました」とのことで、先生はこの時「純心教育は間違っていなかった」と言う確信と「純心が復興して栄えれば死んだ子の方たちが、光栄を受け讃えられることになる」と考えられ、純心復興の御決意を固められたそうです。これが今日の純心をあらしめたのである。

 校長先生は申された。「私はあと片付けのために生き残った。そしてそれを完成するためにも校長を辞した。もしこの役目を遂行し終わったらなら、早くあの人たちのところにゆきたい」と。私が死ななかったのは、天国へ行く資格がなかったことは言うまでもない。けれども、生かしていただいているのは、私も不肖ながら「あと片付け」が済んでいないからなのだろうか。

(もうすぐ96歳、長く純心聖母学園の理事長をされ、その後、長崎原爆ホーム施設長をされました。当時、純心高女教諭、時津工場学徒督監)

あるシスターの体験から

原爆投下直後:三菱の造船所で作業していた、高等学校3年生(15歳)の時。

・年に一度の休みの権利があったが取ってなかった。江角学長から「あなたもお休み取りなさい」と言われて、佐世保に帰った。実家で数日過ごし、明日にでも戻ろうと思ったその日に、原爆が投下された。母は「簡単にはいかないよ。一晩待ってごらん」と言った。実家で3〜4ヶ月待った。同級生と1つ上の学年で204名が亡くなった。学園に慰霊碑ができた。残されたからには、神様のみ旨として何かをしないといけない、と思い続けて今日まで生きている。

・佐世保の軍需工場に動員された。空襲警報で防空壕に逃げた。その日に動員された3人が内臓が飛び出し亡くなった。「その人たちのために祈らないと」と黙想会で初めて思った。

・小学6年生で修道会に入会したいと親に言った。でも、父親は「ダメ、ダメ」 高校1年でやっと許された。入会したら友人、シスターが原爆で亡くなっていた。 大村の仮校舎に通い始める。でも、食糧難で、ほとんど勉強はしていない。

・小学生の頃からシスターになりたいと思ってた。でも、病弱の母を手伝うために言い出せずにいた。従兄弟が神父になったので3年かけて、説得してもらった。

原爆が投下された。兄は「助けて!」と何人にも呼び止められたが、無理だと思って通り過ぎた。木に登って、「浦上が燃えてる。大変だ!」と叫んだら、憲兵に叱られた。

翌日は、「B29からポツダム宣言を受け入れるように」というビラがまかれた。それを持っていたら、また憲兵に叱られた。

・小学4年生の時から「お祈りの生活がしたい」とシスターに憧れた。9人兄弟の大家族で大きな声で祈った。信者でない近隣の人は、お祈りが終わってから声をかけてきた。

現役時代、炊事などで働いていた時は、忙しくてあまり祈れなかった。引退して今、祈れることに感謝。長生きできたことに感謝。

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