教皇フランシスコは、「十戒」についての講話の中で「神様が、先に人間を愛したこと」を次の例えで話しています。
ある人が、村人に尋ねました。
「お前たちを治めても(統治・支配)良いか?」
しかし、村人は答えました。
「私たちを治めるためにどんな良いことを、私たちにしてくれますか?」
そこでこの人は、村人のために、防壁で街を守り、街に水を引いてくれました。そして、村人のために敵と闘いました。
その後、もう一度「お前たちを治めても良いか?」と尋ねると、村人は「どうぞ、どうぞ」と言いました。
神様は、まさに同じことをなさいました。
イスラエルの民をエジプトから連れ出し、海を2つに分けて彼らの命を守りました。食べ物がなくなると天からマナを降らせました。最後には、アマレクと闘いました。このような歴史があるから、イスラエルの民は全力で神様を愛そうとしたのです。
(教皇講話集『十戒・主の祈り』P38 一部表現を変えています ペトロ文庫 2020年)
神様は、出来事を通して、イスラエルの民を、また私たちを愛し続けます。神様が、先に人間を全力で愛しました。この恩義を思い出すと、神様を全力で愛する気持ちになります。第一の掟はこのような背景があります。
イエスが「第二の掟」としたのは、レビ記19:18の「隣人を自分のように愛しなさい」です。
この掟は、元は、同胞(同じ民族)だけを愛することを意味していましたが、イエス様が刷新します。良きサマリア人の例え話にあるように、隣人とは、同胞だけではありません。困っている人がいたら誰でも隣人です。
イエス様は、自分と、隣人と、神様と、全部を愛するように、「掟」を与えます。
少し角度を変えてみます。「愛する」という言葉を「幸せ」で言い換えてみます。
自分と、隣人と、神様と、全部を愛する。このことは3点で言い換えます。
自分が本当に幸せ、と言えること。
周り(隣人)にも幸せがもたらされること。ドイツの詩人ゲーテは「人を幸福にすることが、一番確かな幸福への道である」と言ってます。
神様も確かに喜んでおられると、感じられること。神様の望みを自分の望みに出来る人ほど、本当に幸せな人です。
この3つを兼ね備えるのは、難しいかもしれません。私がサラリーマンの頃、エネルギーの8割・9割を仕事に注いでいました。休日に隣人愛(車椅子の方のお風呂の介助)もしていましたが、バランスは仕事でした。でも、3つが揃わないと、本当の幸せになれない。だから、神様が司祭に呼んだのでしょう。
神様だけのため、ということは実際あまりないかもしれません。
自分だけのことを求めてもいけないし、他人のことだけでも足りない。
結局は、3つを兼ね備えるのが「本当の幸せ」だと思います。
人間の世界の留まって、自分と相手、あるいは仕事、だけもいけない。
自分と神様だけでも、足りない。
やっぱり、自分、相手、神様、3つを愛することを目指しましょう。イエス様の「愛の掟」を心に留めて「本当の幸せ」を目指しましょう。
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